阿房列車

阿房列車は「鉄道に乗ること」を目的に旅行する、という”乗り鉄”の元祖である。

オリジナルは1952年(昭和27年)に三笠書房から刊行された。筆者は旺文社文庫版で読むことを好む。理由は旺文社文庫は旧かな遣いで、生前旧字旧かなに拘った著者が公にした状態に近いのである。※トップ画像参照

しかも旺文社文庫39巻はほぼ全ての作品を収録している全集でもあるのだ。残念ながら1987年に廃刊になってしまった。それから、もう30年も経つ。百閒先生の旺文社文庫、古書価格が一時期は高騰したが、最近は値段がこなれてきた様だ。

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その後新字新かなの新輯内田百閒全集が福武書店(現・ベネッセ)から刊行された。それを受けて福武文庫でも内田百閒はほとんどの作品が文庫化された。しかし福武書店も出版から撤退。

現在は、新潮文庫版(2003年初版)で「第一阿房列車」「第二阿房列車」「第三阿房列車」を読むことができる。新潮文庫版の良いところは表紙に内田百閒先生の写真が使われていることだ。筆者などこの写真を眺めるために新潮文庫を買った。(笑)

「第一阿房列車」がどこかに紛れ込んでしまって探し出せないのでとりあえず新潮文庫の「第二阿房列車」「第三阿房列車」
「第二阿房列車」「第三阿房列車」

またちくま文庫から「内田百閒集成」全24巻も刊行され、第1巻が阿房列車である。

著者内田百閒を簡単に紹介しておく。

1889年(明治22年)岡山生まれ。本名内田栄造。造り酒屋の一人息子で極めて大切に育てられたが大学生の時に父が亡くなり、経済的に困窮。東京帝国大学文学科独逸文学専攻在学中に夏目漱石に弟子入り。漱石山房では芥川龍之介と親交が深かった。大学卒業後、陸軍士官学校ドイツ語学教授。夏目漱石全集の校閲に従事。英語教官だった芥川の推薦で海軍機関学校ドイツ語教官も兼任。その後法政大学教授。短編小説「冥途」など奇妙な味わいの小説を書く。高給取りであったが大家族と本人の贅沢で借財が嵩む。法政大学航空研究会会長。法政大学を辞職後は文筆業に専念。この頃から軽妙な随筆が人気を集める。百閒は俳号、百鬼園とも号した。

還暦を迎えた百閒先生の誕生日をかつての学生たちが囲んで祝った「摩阿陀会(まあだかい=まだ死なないのかい?)」は、以降毎年東京ステーションホテルで行われる年中行事となった。

黒澤明監督の最後の映画作品『まあだだよ』(1993)はこの百閒先生と学生たちの交流を映画化したもの。

その後1967年(昭和42年)芸術院会員に推薦されたが「イヤダカラ、イヤダ」と断った話が有名。1971年(昭和46年)死去。

さて、まずは有名な冒頭を引用しよう。

阿房(あほう)と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考へてはゐない。用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。

なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪に行つて来ようと思ふ。

用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。 旺文社文庫版「第一阿房列車」 p.7

帰りは帰ると云ふ用事があるのだから、三等で沢山であり、無駄遣ひは避けなければならない。行きは一等、帰りは三等、一栄一落これ春秋で大変結構な味がする。 同 p.19

分かった様なよく分からない理屈である。

しかし百鬼園先生、懐が不如意で阿房列車を運行する(旅行する)お金がない。それでお金を借りに行き首尾良く借金ができた。

あんまり用のない金なので、貸す方も気がらくだらうと云ふ事は、借りる側に起(た)つてゐても解る。借りる側の都合から言へば、勿論借りたいから頼むのであるけれど、若(も)し貸して貰へなければ思ひ立つた大阪行をよすだけの事で、よして見たところで大阪にだれも待つてゐるわけではなし、もともとなんにもない用事に支障が起こる筈もない。 同 p.13

百閒先生独特の奇妙な理屈が阿房列車を読む楽しみの一つだ。そもそも用事のない大阪に借金をしてまで一等車で行きたいというのがおかしい。しかも帰りは三等。

実際の旅行は1950年(昭和25年)10月22日〜23日。戦時中に廃止されていた東海道本線の特急列車が復活したので百閒先生は乗りたくなったのである。

しかし、行きたくなって借金をするが、予めきっぷを買ってしまうとその出発時間に拘束されるので不自由だ、とか、独りで旅行するのは神経症の百閒先生には無理なので国鉄職員のヒマラヤ山系氏を連れて行く話だの、雨の中東京駅に行ってみたらきっぷは売り切れだが、何が何でも行きたいと駅長に頼みに行ったり、お見送りに編集者の椰子君が現れたり、とにかく東京駅を特別急行第三列車「はと」号が出発するのは37ページの作品で実に28ページなのである。

この『第一阿房列車』はこの「特別阿房列車」に始まり

・区間阿房列車 1951年(昭和26年)3月10日〜3月12日
・鹿児島阿房列車 前章・後章 1951年(昭和26年)6月30日〜7月7日
・東北本線阿房列車 1951年(昭和26年)10月21日〜24日
・奥羽本線阿房列車 前章・後章 1951年(昭和26年)10月25日〜29日

が収められている。おおよそ百閒先生が60代の頃である。

区間阿房列車は、御殿場線への旅。

1934年(昭和9年)に丹那トンネルが開通するまで東海道本線は国府津〜沼津(現・御殿場線)を通っていた。1910年(明治43年)帝国大学入学の百閒先生は学生時代に帰京する際には常にこの御殿場線ルートを通ったのである。それを懐かしんで御殿場線に乗りに行くのだが、東京駅で列車が遅れて出発したために国府津駅の乗換は動き始めた列車に飛び乗る事態になった。

しかし百閒先生は「そもそも出発が遅れたので乗換時間が足りなくなったのだから、出発を少々遅らせて乗換客を乗せるのが筋だ」と思うし「動き始めた汽車に飛び乗ってはいけないという規則がある」として動き始めた列車に飛び乗ることを拒否し、結果、雨が降りしきる国府津駅ホームでヒマラヤ山系氏と二時間以上を便々と過ごすハメになった。

かうして二時間近くの間、雨垂れの水が足許へじやあじやあ落ちて来るベンチで、いい加減のおやぢと、薹(たう)の立つた若い者がぢつとしてゐる。する事がないから、ぼんやりしてゐる迄の事で、こちらは別に変つた事もないが、大体人が見たら、気違ひが養生してゐると思ふだらう。 同 p.78

ようやく走り出した御殿場線で百閒先生は御殿場線が単線になっていることに驚く。そして1947年(昭和22年)に信号場から駅になった谷峨駅についても、こんな駅はなかったと正確に指摘している。開業時は小山駅だったが1912年(大正元年)に駿河駅に改称されたことにも触れている。百閒先生の阿房列車運行(1951年3月)の後、1952年(昭和27年)の正月元旦に現行の駿河小山駅に改めて改称された。

そしてその夜は興津で泊まり、翌日は東京に帰るのだが特急に乗りたいので静岡まで戻る。

東京へ帰るのに逆に静岡まで行つて急行列車に乗らなくても、沼津まで引き返して、沼津でさうすればその方が道順である事は知つてゐるけれど、沼津からだと東京までが近過ぎて、急行列車に乗つてゐる間が短いから矢つ張り静岡まで行く。 同 p.87

もう乗り鉄の面目躍如である。

しかし何故か興津の一駅東京寄りの由比に行き、浜から通過する優等列車を眺めて先生は御機嫌である。そしてもう一泊することにして夜は由比の駅長を交えて酒を酌み鉄道唱歌を歌う。

翌朝、静岡に12時48分に着くが、百閒先生の乗りたい「鹿児島仕立ての第三四列車一二三等急行」は3時34分なので、それまで駅の待合室で座っている。わざわざ駅外の一時預かりにほとんど空のカバンを預けたり、せっかく一等をとって乗り込んだ列車なのにすぐに食堂車に行って、結局東京まで飲んでいてほとんど一等車には乗っていなかったり、相変わらず頓珍漢な旅が続くのである。

長くなってしまうので後半は次回に続けることにして一旦はここでお仕舞い。

※写真は全て筆者の撮影です