阿房列車
さて後半は鹿児島阿房列車から。

1951年(昭和26年)6月晦日、宵の9時に出発した「第三七列車博多行各等急行筑紫号」の一等コムパアトに百鬼園先生とヒマラヤ山系氏は陣取り、用意の魔法瓶2本に入れた燗酒で一盞(いっさん)を始める、がお酒が足りなくなりボイ(コムパアトメントの係、ボーイを百閒先生はボイと言う)に頼んで熱海で買ってもらう。しかし燗酒の後の冷や酒はすすまない。残った1合を先生は旅行中を通して持って歩き、結局東京に帰宅してから飲んだ。

百閒先生は海を眺めるのが好きなので、わざわざ尾道で下車し、東京を「第三七列車博多行各等急行筑紫号」の30分後に出発した「第三九列車呉線経由広島行二三等急行安芸号」に乗り換えて呉線から海を眺める。この段を読んだので筆者も何度となく呉線を通ってしまう。

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広島で一泊し、昨日下車したと同じ「第三七列車博多行各等急行筑紫号」に広島から乗る。先生初めて関門海峡をトンネルでくぐるのである。

関門トンネルは1942年(昭和17年)に単線開通、1944年(昭和19年)には複線で開通した。百閒先生が通ったのは開通から7年後のことだった。

博多では予約したはずの宿が見付からず急遽紹介された宿に泊まる。この頃は連絡手段が電報なのである。電話は国鉄に鉄道電話があるが電話が一般家庭に普及するのはもっと後のことである。

博多からは東京発「第三三列車霧島号」に乗る。霧島号は博多で一等車と二等寝台車を切り離し二三等編成で鹿児島に向かう。

しかし、この頃の列車は実に運行本数が多く、驚くほどの長時間長距離を走っている。羨ましいというか、乗ってみたい。

鹿児島で列車を降りて前章が終わる。後章は

段段歳を取ると、話が長くなつて、自他共に迷惑する。 同 p.128

という人を食った様な始まり方である。実際に鹿児島駅で百閒先生一行を待っているのは元「麾下の学生状阡(じょうせん)」の妹の配偶者ということなのだが、その状阡を連れて笹塚に借金のことで出かけた時に笹塚の駅に状阡君を一晩置き忘れてしまったことなどが縷々記される。当時の笹塚は「悪い狐の出る」場所だったのである。

その紳士の案内で城山の宿に上がる。先回の大阪では、駅助役に紹介された宿で甚だ貧相な部屋に案内されたのはヒマラヤ山系氏が持ってきたボストンバッグが「死んだ猫に手をつけてさげた様で、丸で形がない。」という代物であったために客商売の宿の女中が百閒先生とヒマラヤ山系氏を見くびったのだろうと推測し、今回は交趾くんの「総体柔らかい皮で光沢があつて、手ざはりが良くて、返したくない程立派な鞄である。」しかし、先生の履く「キツド皮の深護謨の紳士靴靴である。別誂(べつあつら)への三越調製で、倫敦市長が穿く様な立派な型であるが、昭和十四年の春三十三円払つて穿き始めて以来星霜十三年、少し年数が経ち過ぎてゐる。」要はボロ靴なのである。

鹿児島では、無闇に立派な座敷に通されて

東京の私の家は三畳の間が三つ〆(しめ)て九畳であつて、ここの座敷は、今落ち着いた一番奥が十畳敷だから、私の家より広い。続いた二間を加へると、私の家の倍よりもまだ広い。しかし、広くても、広い座敷一ぱいに膨張(ふく)れられるものではない。方方に空いた所があると云ふだけの事で意味がない。 同 p.134

百閒先生、旅先で役所(国鉄)の偉い人に招待されたりする、それがまた先生は厭なのだ。上司に言われて頼みにきたヒマラヤ山系氏の友人(当然国鉄職員でも幹部クラス)も「御迷惑かお差し閊(つか)へか」と問うのである。

人の好意を迷惑だなぞと云へた義理ではない。又差し閊へ度(た)くても、何の用事もないから差し閊へるわけに行かないけれど、何も用事がないのは、何も用事がない様にして来たからで、用事がないと云ふのが私の用事である。 同 p.140

しかし流石に先生も我が儘を通さず招待に応じることにする、が、服を着替えるのが面倒なので泊まっている宿の別室に招待して欲しいと言うのである。ここまで来れば百閒先生、畸人も極まるというものだらう。しかし周囲は先生の我が儘に応じる。

なかなか車窓の話が出てこない。ようやく鹿児島から肥薩線で矢岳越えの車窓が出てくる。百閒先生は矢嶽(やたけ)と書いているが。球磨川に沿って八代までの車窓を先生は堪能する。

スヰツチ・バックがあつて、又登つて矢嶽と云ふ山駅に著いた。歩廊に大きな唐金の水盤がある。その縁から冷たさうな清水が滾滾(こんこん)と溢れてゐる。山系があわてた様に起ち上がり、その方へ馳け出したから、私もついて行つて飲んだが、ぢかに水面につけた脣がしびれる様であつた。 同 p.150-151

この水盤と思しきものは矢岳駅のホーム上に残っている。残念ながら清水は涸れてしまったようだが。

矢岳水盤

そして先生は八代で泊まった宿がたいへん気に入る。この後何度も八代を訪れることになる。

東北本線阿房列車は1951年(昭和26年)10月21日から始まる。内田百閒先生は朝が苦手だ。宵っ張りの朝寝坊。しかも起きてからの用意が常人の数倍かかる。

今朝は七時に起きて、一体私はそんな時間に起きた事がないので勝手がちがつて、目がぱちぱちする様だつたが、それから今かうして、十時にここまで出て来る間、わき目も振らずせかせかと、一心不乱に出かける支度をしたのだが、上厠したのと顔を洗つたのと、洋服を著たのとで三時間が経過した。 同 p.55

要は寝起きでトイレに行って顔を洗って服を着るのに3時間かかったのである。しかもこの習慣は旅に出ても寸毫も変わらない。

盛岡に行きたい、盛岡に宵の7時45分に着く常磐線経由の列車に乗りたいのだが上野発が朝9時35分である。あるいは東北本線経由の8時45分発に乗って、仙台止まりなので先の常磐線経由が追いつくのでそれに乗り換えても良い。

朝の八時だの九時だのと云ふのは私の時計に無い時間であつて、そんな汽車に間に合はすには、どうすれば間に合ふのか、見当もつかない。
 しかし盛岡へ著く時間は大変都合がいい。上野を出るのは朝が早過ぎるからその汽車に乗らないで、盛岡に著くのはその汽車の時間がいいからその汽車に乗つてゐたいと云ふには、どうしたらいいかと考へた。
 その汽車に乗らないで、その汽車で著きたい。
〈中略〉
 わけはない事で、さう云ふ時刻にその汽車が出る所まで行つてゐればいい。 同 p.163

12時50分発の二三等編成準急行仙台行105列車で福島まで行き、福島で一泊して、翌日の午後2時13分に福島から上野を朝8時45分に出た101列車に乗り、仙台でさらに青森行の急行に乗り換え、宵の7時45分に盛岡に著くのである。

盛岡には先生麾下の元学生「谷中懸念仏(やなかけねんぶつ)」が待っていて歓待される。

阿房列車の要諦とはつまり、明るい時間は車窓を眺め、暗くなれば呑み、宿で庭を眺め、暗くなれば呑み、麾下の元学生たちと久闊を叙し、楽しく呑み、そして「帰る」という用事で帰ってくる、これに尽きる。だがそれが百閒先生の実は懲りに凝った不思議なリズムの日本語で記されると繰り返し何度読んでも面白いのだから困る。

盛岡から浅蟲温泉までの車窓が美しい筆致で描かれている。p.192-195

後章は風呂の話で始まり百閒先生が温泉に入ったことが殆ど無い、ということが記される。先生長年東京に住んで居ながら箱根にも日光にも江ノ島にも富士山にも行ったことがないという理由と同じで「皆が行きたがる様な場所には行きたくない」というだけのことなのだ。阿房列車でも観光地に案内されることを忌避し続ける。そのおかげで小生も青春18きっぷで全国をくまなく旅したが観光地には全く足を踏み入れていない。百閒先生にまねびて有名な景色は絵はがきで見れば済むのである。

しかし今回は浅蟲温泉に泊まる。

ここからそのまま奥羽本線阿房列車の前章になる。

朝蟲でぬるい湯に浸かってなかなか楽しそうなのだから百閒先生、温泉が嫌いというワケではない。百閒先生は本当によく分からない。御本人も分かっていない様なところがある。

翌朝は青森まで行き秋田行に乗り換えるのだが2時間以上の時間があり二人は靑森の駅前をふらふらする。床屋で髭を剃ってもらいサッパリして支那蕎麦を食べる。ヒマラヤ山系氏の好物に先生がつきあったのだ。かなり前から先生の前歯はグラグラして抜けそうなのだ、そのために蕎麦をすすり込むのが難しい。

どうも百閒先生は歯科治療というものを生涯受けなかった様である。これはこれでスゴイ。それで天寿を全うしたのが羨ましい。

秋田行の512列車は秋田を午後2時10分に発車して、二人は秋田で降りてしまうのだが、列車は、奥羽本線の秋田から羽越本線に這入り新津、信越本線で直江津、北陸本線で敦賀から米原に出て最後は東海道本線で大阪に翌日の20時51分に著くという長大な列車なのだ。30時間以上走り続ける(もちろん停車はするし機関車も取り換えるだろう)こういう列車に乗ってみたいと憧れる。

19時49分秋田で降りた二人は山系の友人である国鉄管理局2人、保線区1人の出迎えで旅館に行き早速お膳を囲む。先生、勧められたら絶対に喰わないと力んでいた塩汁(しょっつる)やきりたんぽを酔った勢いで食べて、加えてハタハタまで欲しがるが宴席は夜なので魚屋は閉まっていて叶わない。翌朝ヒマラヤ山系氏の朝食にハタハタが出されているのを憮然と眺めていると雷がなる。ハタハタは雷魚である。

ちなみに百閒先生は朝食も昼食も食べない。基本的に空腹の方が夜のお酒が美味しいからなのだそうだが、時々ヒマラヤ山系氏に託けて午餐を食べている。

二人は盛岡から横手に行き横黒(おうこく)線に乗る。

北上駅は、1954年(昭和29年)までは黒沢尻という駅だった。つまり百閒先生が訪れた1951年(昭和26年)には横手から黒沢尻を結ぶ横黒線だったわけだ。北上線と改称されるのは1966年(昭和41年)と15年ほど先のことになる。

雨の中、早く横手に着いた二人は駅そばを食べる。これで前章は終わり、後章は横黒線に乗るところから始まる。15時発の列車で終点の黒沢尻(現・北上)まで行って戻って来る予定だったが、既に10月25日、終点に着く頃には外は暗いし、その暗い中戻ってきても車窓からの景色は見えない。

さう云ふ汽車旅行はつまらない。そこで分別を新たにして、もともと終着駅の黒沢尻と云ふ未知の町に、用事があるわけではないから、そこまで行くのをよした。全線六十粁余りの半分より少し先に行つた所に、大荒沢と云ふ駅がある。どんな所だか勿論知らないが、そこで汽車を降りて、十九分待つて、向こうから来る七一五列車で帰つて来よう。大荒沢の着が四時二十三分で、発が四時四十二分である。それならまだ明るい。 同 p.217-218

この大荒沢という駅は現存しない。

横黒線建設中の1924年(大正13年)10月、難所の仙人峠を貫通した仙人隧道の西側に暫定的な終着駅として大荒沢は開業した。しかし11月には全線が開通し大荒沢駅は中間駅となった。その後、錦秋湖(湯田ダム)建設で大荒沢駅を含む15kmがダム湖に沈むことになり1962年(昭和37年)に現在の新線に付け替えられた。その際に大荒沢駅は廃止され信号場に格下げとなった。その信号場も1970年(昭和45年)には廃止されてしまった。

それで大荒沢へ著いた。陸橋もない寒駅で、降りしきる雨の中に、低い屋根や、屋根のない歩廊が濡れてゐるだけなく、改札も手すりも駅長事務室の硝子戸も濡れてゐる。〈中略〉今同じ汽車から降りた学校の子供が十人許り、改札口に押し合ひへし合ひして、改札掛かりが手に持つた書附けで子供を一人一人点検するらしく、名前を聞いて顔を見たり、歳を尋ねたり、ちつとも埒があかない。 同 p.219

ここで驚くのは山奥の大荒沢駅に駅長以外にも複数の駅員がいて、10人の子供が通学していることだ。この文章は1951年(昭和26年)の事を書いているのでこの時に10歳だった子供は既に75歳だ。

雨の中横手に戻った2人は例の如く一餐する。

今度の旅行も泊まりを重ねて、今日は六晩目である。行く先先で毎晩お酒を飲み、それはいいけれど必ず飲み過ぎて酔つ払ふ。お酒は酔ふ迄がいいので、酔つてからの事は、いいのか、よくないのか判然しない。さうして翌日は歴然とよくない。いやな気持ちで、鬱陶しくて、世界の終わりに近づいた様な気がする。 同 p.222

これは百閒先生と言わず世の酒飲みには共通する。2人はまたしても翌朝重い頭をかかえている。

早めに、と言っても昼過ぎだが、横手駅に行き、また駅そばをすする。午後2時31分の列車で雨中山形に向かう。山形で先生、女中に急かされて風呂に入る。熱い風呂の嫌いな百閒先生は水だと思って水道の栓をひねると熱湯で、熱くて風呂に浸かれない。

翌日は仙山線で仙台に行く。途中の山寺駅で電気機関車に付け替え仙山トンネル(5361m)を抜ける。百閒先生はこのトンネルを面白山の隧道と書いている。当時では上越線の清水トンネル、東海道本線の丹那トンネルに次ぐ日本で3番目に長いトンネルで開通当時から山寺〜作並間は電化されていた。作並で電気機関車を蒸気機関車に付け替えたと先生も書いている。

この夜、酔って海を見ながら狐の汽車の幻を語る辺りは百閒先生の真骨頂かもしれない。

そして東京に帰る日、仙台発急行102列車に乗って郡山から食堂車で呑み始め4時間半たって席に戻ったら上野だった。

内田百閒の阿房列車の魅力は書かれた内容も面白いのだが、何よりも先生の何とも不思議な日本語の文章自体にあるので、その面白さを伝えようと思うと結局は全文を引用をすることになりそうで、それならば文庫本を手にして読む方が遥かに良い。困ったなぁ。第二と第三の阿房列車も紹介したいのだが。