※2015年8月撮影

トップ画像は、宇野港の四国フェリー。髙松行です。残念なことに2019年(令和元年)12月、宇野~髙松間のフェリーは休止されました。瀬戸大橋通行料がETC割引などで安くなりフェリー利用者(車)が激減したため、コストダウンの限界を越えてしまったと運航していた四国フェリー(株)は自社サイトで公表しました。1910年(明治43年)の宇野線開通以来、本州と四国を結ぶ幹線交通路、国鉄の宇高連絡船(鉄道連絡船)として運航されてきた109年の歴史に幕が下ろされたのです。

宇野線は茶屋町駅を出て宇野駅に向かっています。

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彦崎駅。1910年(明治43年)味野駅として開業。1914年(大正3年)彦崎駅に改称。駅周辺に味野という地名はありません。瀬戸大橋線児島駅の西側に旧味野村・味野町はありますが離れた場所です。相対式ホーム2面2線で列車交換が可能。宇高連絡線が本州・四国の大動脈だった時代の名残で優等列車や四国への貨物列車のため行き違いの線路有効長が長くなっています。

※2015年8月撮影

迫川(はざかわ)駅。1910年(明治43年)由加(ゆが)駅として開業。この由加という地名も駅の南西8kmほど離れた場所です。開業時の駅所在地は、岡山県児島郡灘崎村迫川でした。1952年(昭和27年)迫川駅に改称。この駅も宇高連絡線時代の名残で行き違いの線路有効長が長く、ホームも長くなっています。

※2015年8月撮影

常山駅。茶屋町駅~宇野駅間で唯一交換設備の無い単式ホームのシンプルな棒状駅です。1939年(昭和14年)開業。1940年(昭和15年)~1950年(昭和25年)駅は休止されました。駅の南に常山(306.8m)があります。女子校生の背後の山です。山頂付近に常山城がありました。

※2015年8月撮影

八浜駅。1910年(明治43年)開業。丸いアタマの山は麦飯山(232.3m)かな。

※2015年8月撮影

硯井天満宮は菅原道真公がこの井戸の水で墨をすって歌を書いたという井戸と天満宮がありますが、それよりも与太郎神社が落語みたいで興味がわきます。

調べると宇喜多與太郎神社といい、祭神は戦国時代の武将宇喜多与太郎基家(うきたよたろうもといえ)。落語の与太郎ではありません。毛利氏との闘いにおいて齢わずか10歳で討ち死。葬られた場所がその夭折を哀れみ供養する人々によって神社になった様です。足の病に霊験あらたかと書いてあります。

※2015年8月撮影

宇野線は八浜駅を出て東に1.5kmほどで、ほぼ直角に右に曲がり南下して宇野駅に向かいます。

車内には、全国何処にでもいるステレオタイプ。土足をシートにのせ、スマホでゲームをしています。昔は「シートは子供も坐る場所、トイレにも入る靴は汚いから脱ぎましょう」と注意していましたが、概ね「ウルサそうにチラッと見て無視される」か、あべこべに「んだぁ! 爺ぃ るせえんだよ」とすごまれるので最近は写真を撮って「お行儀悪い人カタログ」を作っています。言うまでも無く「文弱の徒」である筆者に暴力系の才能は皆無です。

※2015年8月撮影

8時42分終点の宇野駅に着きました。乗って来た列車は岡山行になります。国鉄115系電車。2019年(令和元年)からこのD-07編成は「SETOUCHI TRAIN ラッピング」になっています。

※2015年8月撮影

その横から頭端式の駅舎側を見ています。

※2015年8月撮影

終端部車止め側から2番線。

※2015年8月撮影

1番線は回送表示の湘南色。

※2015年8月撮影

では宇高連絡線を偲んでフェリーに乗って髙松に向かいます。

※筆者は既にコラムなどで青春18きっぷ鉄道旅の写真を度々使用しています。重複していますが、御容赦ください。

※価格、駅などは2015年当時のものです。

(写真・文/住田至朗)