さて、2020年1月21日、再び鶴見市場駅に来ました。昨日、立ち話のおばちゃまたちが立っていた熊野神社、右の石碑には異なる字で書かれていますが、この字「墅」なのか、調べましたがよく分からないままです。

熊野神社は帰路に寄ることにして旧東海道を南に進みます。市場一里塚がこの先にあるのです。流石、旧東海道というべきでしょうか。右の酒店は「創業慶應元年」と看板にあります。建物はプレハブっぽいですけど。

熊野神社から400-500mで市場一里塚が左側にありました。バス停のトコロです。

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現在は稲荷神社になっていて、辛うじて塚の雰囲気が残っているという感じです。昭和初期まで江戸時代の一里塚に植えられた榎(えのき)の大木が残っていたそうです。

慶長九年(1604年)徳川幕府は江戸から京都まで街道を整備、宿場を設けました。里程の目印に江戸見本橋から一里(約4km)毎に街道に五間四方(約9m四方)の塚を造り上に榎を植えました。この市場一里塚は江戸から五里に当たる塚でした。

昭和八年建立と裏に彫られた「武州橘樹村 市場村一里塚」の大きな石碑があります。背後に「市場一里塚三百七十年顕彰之碑」も見えます。

鶴見川の支流がこの辺りを流れていた頃(今は暗渠?)、市場橋が架かっていてその欄干が残されていました。

こっちの欄干には漢字。一里塚の前にあるバス停が「市場橋バス停」でした。

さて、もう300mほど先に筆者の好きな庚申堂があるのでどうしようか迷ったのですが、機会を改めるコトにして熊野神社まで戻ってきました。

弘仁年間(810-823年)に紀州熊野の別当尊慶上人が、紀州熊野本宮御祭神の御分霊をこの地に勧請したのが始まり。徳川家康が江戸に入る際に天下泰平、国家安穏、武運長久を祈念した神社でした。その頃は鶴見川の西側にあったのですが、その後、現在は元宮という地名になった場所に遷され、さらに明治三年鉄道敷設予定地になったため現在の場所に遷座されました。

社殿は江戸時代から続く宮大工の名門渡辺家(屋号:銚子塚)の造営。狛犬は、慶應二年(1866年)、石灯篭には天保六年(1835年)と刻まれています。

祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、伊邪那岐(いざなぎのみこと)、伊邪那美(いざなみのみこと)。

この水盤は江戸時代、天保8年(1837年)に奉納されたと彫られています。水盤に書かれているのは「荘子」の中の言葉を刻んだもので神社のホームページに拠れば

「之が本原を立てて、知は神に通ず」で、「(徳のある人は)道の本原に立っており、その知は神秘なものに通じている」との意味です。

・・・とのこと。

また境内には「横浜市立市場小学校発祥の地」という碑もありました。明治12年(1879年)熊野神社境内に第一大学区神奈川県管内第七中学区百三十三番小学市場学校の校舎が建てられたのです。この場所に明治39年(1906年)まで校舎があった様です。

これにて鶴見市場駅の【駅ぶら】は終了です。【駅ぶら03】京浜急行30 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)