鈴木町駅を降りて川崎河港水門の方に行こうと歩いていますが京急大師線の北側には東京ドーム8個分という広大な味の素川崎工場があって、そもそも多摩川側に出る場所が無いのです。味の素グループの「うま味体験館」の前を通り過ぎて港町駅の方向に戻って行きました。最初の信号を右に曲がって大師線のガード下をくぐってようやく多奈川方向、北に行けます。

川崎河港水門の正面は京急線の車窓か対岸から撮影するしかないのかな。ロープで立入禁止となっているので水門の陸側船溜まりにも入れません。釣り人が入っていましたけど。(笑)

しかし100年近く前(昭和3年/1928年)に作られたとは思えないモダンな佇まいです。

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川崎河港水門(国登録有形文化財)の説明が立っていますが、文字がかすれていて読み辛いです。

川崎河港水門は、1928年(昭和3年)に作られた高さ20.3m、水門の幅10.0m、鉄筋コンクリートの水門。実は“幻の川崎大運河計画”の存在を物語る希少な歴史的遺産なのです。国の登録有形文化財の指定を受けています。

川崎市教育委員会のホームページの内容を以下に簡略化して記述します。

大正時代末期、第一次世界大戦による好景気を受けて川崎市は、物資輸送のため古来より水運に利用されてきた多摩川から内陸部に運河を引き入れ、開鑿にで生じた土砂で両岸を埋め立てるという大規模な運河・港湾計画をたてました。

川崎河港水門は、この運河計画の一環として、当時の多摩川改修事務所長であった内務省土木技師金森誠之氏によって設計され、大正15年(1926年)に着工、1年半の歳月をかけて昭和3年(1928)3月に完成したのです。

水門の塔の上には、当時の川崎の名産品であった梨・桃・葡萄をモチーフとした巨大な彫刻が飾られています。梨は、有名な「長十郎」の誕生地が水門近くの出来野であったことから、桃は、外国産の桃が大師河原において日本で最初に栽培されるようになったこと、そして葡萄もまた近隣の名産だったことなどから選ばれました。

運河計画は、現在の川崎区を対角線に横切る3筋の大計画となり、昭和10年(1935)に都市計画事業として内務省の認可を得ましたが、運河に対する建築制限の認識が道路と異なり薄かったため、満州事変、日中戦争の勃発による軍需産業を中心とした好景気のもと、次々に住宅や工場が運河予定地に建設されてしまいました。

そして第2次世界大戦開戦で戦時体制が強化され、社会状況・国益に合わなくなった運河計画は、9年後の昭和18年(1943)に廃止となったのです。水門から約220m開鑿されただけで運河建設は中断、その後埋め立てられ、水門に接続する部分約80mが舟溜まりとして残存しているだけです。現在は千葉方面からの砂利運搬船の陸揚げ施設として利用されています。

登録有形文化財の銘板があります。第14-0018号。下には「近代化産業遺産 平成19年 経済産業省」「河港水門 川崎市」も掲示されています。塗装の色が一部で異なっています。

水門から北側の多摩川。対岸は大田区南六郷。上流に少し行けば京急本線の六郷土手駅があります。

多摩川沿いは遊歩道になっています。少し下流側、味の素工場の北側に進んで水門をみてみました。水門の右下で高校生が釣りをしています。後ほど通りかかって「何が釣れるの?」と尋ねたら「分からないけど、何か釣れそうでしょ?」とのこと。コロナ・ウィルス騒動で高校生諸君もヒマなのです。

多摩川上流方向を眺めると港町駅北側、元日本コロムビアのレコードプレス工場跡に作られたタワーマンション3棟が並んで見えます。近いです。歩いてくれば良かったかな。

タワーマンション側に行って河港水門。背後に味の素川崎工場が圧倒的なボリュームで広がっています。

多摩川下流を見ます。後ほど大師橋に行きますが、その時に見えた赤白の高圧線鉄塔が見えます。歩くとちょっとありますね。

では鈴木町駅に戻って大師線の敷かれた大元になった川崎大師様にお詣りします。

【駅ぶら03】京浜急行127 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)