マルセル・デュシャンと日本美術 東京国立博物館

2018.10.29

ダダイズム100周年ですが

ざっくり「ダダイズム=反芸術」という「考え方」が作り出されて100年が経ちます。筆者は学生時代に美術史を専門にしていたので、この分野については世間の標準より若干詳しいのですが、めっちゃ面倒臭い話が延々続く展開になってもしょうがないのでザックリいっちゃいます。

近代以降、美術館が誕生して芸術は「鑑賞される対象」になりました。早い話「見世物」を観に「美術館」にいくワケです。聞き飽きたと思いますが、ダダイズムと同じ頃、抽象表現主義絵画というものが出現します。そうすると結果的に美術館に収まった抽象画を観た観客は「これは何を描いているのだ 何の意味があるのだ」とたくさんの「?」を投げつけます。

もちろん写真が発明されてから絵画は世界を再現する道具としてではなく「世界がどう見えるか(印象派)」「画家はそれをどう表現するか(後期印象派〜表現主義)」という方向に向かいます。つまり絵画は芸術家の表現を感受するモノになってゆくのですが、ナイーブな鑑賞者は「絵画は世界の再現である」という態度から脱しきれません。「うわ〜写真みたい」という褒め言葉が囁かれる観賞態度です。

仕方無いです。ふつーに新古典派や後期浪漫派のクラシック音楽を聴いてきた人にイキナリ現代音楽を聴かせて「楽しんでくださいね」と言っても無理なのです。あれは半分理屈を聴いているよーなモンですから。それと同じで現代美術は「何故それがソコにあるのか、文脈的な意味」を前提に解釈・消費される商材なのです。

ダダイズムは単純化すれば「美術館に並べられたものが美術である」という分かり易い事実を嘲弄する態度です。デュシャンは、男性便器や既製品を美術館に持ち込んで世間をからかったワケです。しかも、その背後に「あたかも高尚な考え」が隠されていて「ソレこそが新しい芸術である」という「手の込んだ仕掛け」を作って遊んでいたのです。ダダイズム以降のアートは「作品をそこに置いた態度」が芸術作品であって、眼の前の物体=作品はそのサンプルに過ぎないのです。

※フィラデルフィア美術館の”大ガラス”の手前に立つマルセル・デュシャン

今回の国立博物館の「マルセル・デュシャンと日本美術」は、そーいう意味でダダイズムを正面から説明するのでは無く「日本の美術で言えばこんなコトあったでしょ?」みたいな一見アナログ的な説明が、その実は「ホモロジカル」に並べられていて「考えてみましょう」と言われても意外に難しいんじゃないでしょうか。

※フィラデルフィア美術館の”大ガラス”の向こう側に立つ筆者

フィラデルフィア美術館に行くのはニューヨークから列車に乗っていかなければなりませんし、フィラデルフィアの常設では観ることのできない作品もあった様に思います。

そんなに混んでいないのでフェルメールも良いですけど、デュシャンの仕掛けた底意地の悪い冗談にクスクス笑う「ゲージュツの秋」は如何?

(写真・記事/住田至朗)

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