【木造駅舎カタログ】東北本線03/85 日詰駅

2021.10.24

※2020年9月撮影

トップ画像は、東北本線日詰駅。隣の紫波中央駅の東に旧日詰町の中心地、紫波町役場があります。それ故に請願されて駅が開設された経緯は紫波中央駅をご覧ください。

日詰駅の歴史は古く1890年(明治23年)日本鉄道奥州線の駅として開業しています。1906年(明治39年)日本鉄道が国有化され、1909年(明治42年)国有鉄道線路名称で東北本線となりました。1982年(昭和57年)貨物営業終了。国鉄分割民営化でJR東日本に承継され2004年(平成16年)日詰駅長廃止、業務委託駅になります。2018年(平成30年)みどりの窓口営業終了。

古くて大きな木造駅舎がありましたが解体撤去され、現在の駅舎は1986年(昭和61年)に建造されたものです。

※2020年9月撮影

実はもっと古い木造駅舎があると思って下車しましたが、意外に新しい建物だったのでその後アッサリ移動してしまったので駅舎の写真をあまり撮っていません。でもせっかくなので日詰駅も記録に残しておきます。

何と言っても宮澤賢治の歌碑の印象が強かったのです。筆者は宮澤賢治の熱心な読者ではありませんが、子供の頃、親が買い与えた宮澤賢治の伝記を何度も読みかえしたので、ついつい賢治の碑があると覗き込んでしまいます。

※2020年9月撮影

37歳で亡くなった宮澤賢治は生涯不犯、一生童貞であったそうですが、その賢治の初恋の物語がこの駅に残されています。1914年(大正3年)盛岡中学を卒業した賢治は盛岡市の岩手病院に入院します。そこで出会った看護婦に思いを寄せ18歳の賢治は両親に結婚したいと申し出ますが「若すぎる」と反対されました。その看護婦さんの実家が日詰町にあったのです。

さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こころみだれぬ

東北本線の車窓から日詰駅の桜を見る度に孤独な宮澤賢治は思いを巡らせていたのでしょうか。入院から3年後、1917年(大正6年)21歳の賢治は盛岡高等農林学校の生徒。友人たちと同人誌『アザリア』を発行した年です。

賢治の歌碑の横に紫波町の観光案内。銭形平次の作者野村胡堂「あらえびす」さんの生まれ故郷だったのですね。知りませんでした。

※2020年9月撮影

駅前の東側。「野村胡堂あらえびす記念館」はこの先にあります。

※2020年9月撮影

※鉄道の撮影は鉄道会社、鉄道利用者、関係者などのご厚意で撮らせていただいています。撮影は何よりも安全が最優先。あくまでも業務・利用の邪魔にならないように、そしていつも感謝の気持ちを持って撮影しています。

(写真・文章/住田至朗)


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