※2022年6月撮影

トップ画像、二ノ丸跡の横に建つ佐倉藩五代藩主堀田正睦(まさよし)公の銅像。佐倉ライオンズクラブが2006年に建立したものです。

像の土台にあった案内の内容を要約します。

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日本を鎖国から開国に導いた堀田正睦公は、文化7年(1810)生まれ。天保4年(1833)藩政改革に着手。文武を奨励、藩校を拡充、蘭学の導入で医学塾佐倉順天堂を開院させました。

天保12年(1841)幕府老中に就き、安政2年(1855)老中首座。攘夷が叫ばれる中、開国を唱えアメリカ総領事タウンゼント・ハリスと「日米修好通商条約」締結に尽力しました。

井伊直弼一派の台頭で政治から退き、元治元年(1864)佐倉城三ノ丸御殿で亡くなっています。

堀田正睦公と向かい合うようにタウンゼント・ハリスの像。同様に佐倉ライオンズクラブの建立です。

※2022年6月撮影

台座の案内は以下(要約)。

安政3年(1856)アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、大統領の親書を携え下田に到着。その目的は世界に先駆け日本を開国させることでした。

このアメリカの動向が開明派の藩主堀田正睦公を外交の舞台に登場させます。堀田正睦公は「通商関係は相互友愛と信頼による」というハリスの考え方に共感。安政5年(1858)正睦公指揮下で交渉に当たった2名がアメリカ軍艦ポーハタン号艦上で「日米修好通商条約」調印。

文久2年(1862)ハリスは5年9ヶ月の日本滞在から南北戦争ただ中のアメリカに帰国しました。

出合いから170年後、二人はここで静かに向かい合っているのです。

「二の門跡」

※2022年6月撮影

この門内が二ノ丸、藩主堀田正睦公が亡くなった御殿のある藩政の中心でした。

本丸跡に向かう途中に正岡子規の句碑「常磐木や冬されまさる城の跡」があります。

※2022年6月撮影

横の案内を要約します。

正岡子規は、1894年(明治27年)本所駅(現・錦糸町駅)から開通した総武鉄道に初めて乗って佐倉の地を訪れました。佐倉駅で「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」を詠み、現在の国立歴史民俗博物館に上がる愛宕坂の下辺りで石碑の句を詠んでいます。

本丸跡に南側の「台所門跡(不明門)」から入ります。

※2022年6月撮影

本丸跡の広い草原。しかし本丸には徳川家康公が休憩した事があり、畏れ多いと年始などの特別な時以外は使用されなかった様です。(佐倉市による「佐倉城二の丸御殿跡」の案内からです)

※2022年6月撮影

佐倉市による「佐倉城本丸天守及びその石碑について」。

※2022年6月撮影

内容はご覧ください。次回も本丸跡からです。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京成電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。