今回は先にも触れた内田百閒先生の『阿房列車』に登場する笹塚をご紹介します。

※2023年5月撮影

旺文社文庫版『阿房列車』p.128の「鹿児島阿房列車 後章」からの引用。オリジナルの旧カナ遣いです。「状阡」というのは先生が子分の学生につけた渾名。

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「段段歳を取ると、話しが長くなつて、自他共に迷惑する。

〈中略〉

余程寒くなつてから、或る晩京王線の笹塚駅近くに用事があって出掛けた時、状阡(じやうせん)がついて来た。ついて来たと云つては悪いかも知れない。私がついて来いと云つて、連れて行つた様な気もする。

その時分の私の用事と云ふのは、大概きまつてゐて、お金を借りる相談か、他から借りられる様にして貰ふ依頼か、已に借りてゐるお金を、もう暫く返さずに置く言ひ訳か、大体そんな事を出なかつた様である。

さう云ふ用件で行くのに、状阡なぞを連れて行つて、どうすると云ふ利用法はない。今から思ふに、きつと私は行くのがいやで、いやだからせめて途中の道連れにして、往復の間だけでも自分の気持を胡麻化さうとしたのだらう。

だから笹塚で一緒に電車を降りたけれど、勿論先方の家へ連れて行くつもりはなく、ぢきに帰つて来るから、駅の中で待つてゐなさいと云い捨てて、薄暗いホームの片屋根の、待合小屋の腰掛けに残して行つた。彼は寒いから、腰掛けの隅の方へ寄つて行つた様であつた。

その時分の笹塚駅に改札口なぞはなかった。駅と名づけられるのは、上り下りにホームがあつて、各片屋根の小屋が建つてゐるからで、降りる時の切符は車内で車掌が受取り、乗つたら車掌が切符を売りに来る、つまり市内電車と同じ風がつたのだと思ふ。

〈中略〉

駅に戻つて来て、帰りの上りのホームで状阡を探したけれどゐない。探したと云つても、片屋根の小屋の中は一目で見えるし、小屋のまはりの暗がりを一廻りしたがゐない。

〈中略〉

あの辺には狐がゐると云ふ話だつたので、或は薄つすら致されたのかも知れない。間もなく向うの暗闇の中から、明るい塊りが近づいて、その電車は狐ではなかつた。

〈中略〉

翌日の朝、〈中略〉もう一度下宿へ寄つて見たら、今朝帰つて来たと云つて、状阡が現れた。

昨夜は降りた儘のホームの待合小屋の片隅で、いつまでも私を待つてゐたのださうで、これからまだ先へ行くのではあるまいし、なぜ帰りの上りホームへ来てゐなかつたかと、彼の落ち度にして極めつけたけれど、内心私がそつちのホームを見に行かなかつたのはいけないと思つた。

それで段段夜が更けて、寒くはあるし、私は帰つて来ないし、先に帰つてしまつたなどとは露知らず、少しこはくなつて、がたがたしてゐると、どこからか小さなをばさんが出てきて、この夜更けにそんな所に一人で何をしてゐると尋ねる。

一緒に来た人を待つてゐるのだと云ふと、そんな人を待つても、仮りに戻つて来たところで、もう電車はない。この辺は物騒である。その上悪い狐もゐる。家へ来て泊まりなさいと云つて連れて行つてくれた。」

百閒先生はその日、士官学校で教えた後、新宿で大きなカステラを買って笹塚駅の後の煙草屋へ御礼の挨拶に行っています。

※2023年5月撮影

百鬼園先生が士官学校で教えていたのは1923年(大正12年)~1925年(大正14年)なので笹塚駅が開業して10年程経った頃の話だと思われます。今の笹塚駅周辺の様子とは正に今昔の感があります。

次回は代田橋駅に向かいます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)