※2023年5月撮影

トップ画像は、下高井戸駅西側踏切から下高井戸駅前市場。昭和レトロな雰囲気です。

踏切から駅、奥は新宿方面です。

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※2023年5月撮影

実は、駅の北側には、あまり行った事がありません。

※2023年5月撮影

下高井戸駅前市場の中。八百屋、花屋、漢方薬局が営業していました。

※2023年5月撮影

こちら側、右手前の魚屋は外で営業していると貼り紙があります。奥の惣菜屋は営業中。左奥にも魚屋があります。

※2023年5月撮影

流石に千歳烏山に住んでいた時代もここまでは買物に来ませんでした。

甲州街道に向かって商店街が続いています。

※2023年5月撮影

古風なお米屋さん。閉まっていますが建物もシブイ。「自主米」の自動販売機があります。流石に稼働していません。

※2023年5月撮影

米穀店が絶滅危惧種なので、余談ですがお米の話です。

1981年(昭和56年)に廃止されるまで私たちが米を買うには「米穀配給通帳」が必要でした。

御存知でしたか?

とは言っても実質的に1960年代初頭に「米穀配給通帳」は有名無実化していました。それでも筆者が子供の頃はお米屋さんが米を届けるのが普通でした。しかしスーパーマーケットなどが登場し商店街が衰退。1969年(昭和44年)「自主流通米制度」が発足しスーパー等で米が自由に買える様になったのです。

つまり「自主流通米」登場以前は、原理的に国が統制する「配給米」を「米穀配給通帳」で購入するしか無かったのです。しかし「配給米」は、国が買い上げた全国の米を適当に混ぜ合わせた「不味い米」というコトで嫌われ「自主流通米」が登場すると圧倒的なシェアを持つようになっていったのです。

そりゃ、生産者も「全て国に買い上げられ評価と無縁=無名の米」を心をこめて作る理由が無かったのです。

商店街に米屋が残っていると、筆者は昔の「配給米」と「プラッシー」のコトを思い出します。

話を戻して、甲州街道を渡ります。

玉川上水は暗渠化されその後には公園が整備されています。下高井戸橋を見に来ました。

※2023年5月撮影

北側から下高井戸橋。両側は玉川上水第三公園になっています。

※2023年5月撮影

橋の名前が残っていました。

※2023年5月撮影

下高井戸駅北口に戻って来ました。

※2023年5月撮影

次回は桜上水駅に向かいます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)