トップ画像は、安針塚駅を通過する快特電車品川・泉岳寺行。

さて、安針塚に行くことにしましたが、Googleなどの地図を見ても徒歩で登る経路が不明なのです。神奈川県のホームページ神奈川県公園協会、などに掲載されているマップは大雑把過ぎて分かりません。横須賀市の案内が最も分かり易かったのですが。

いずれにしても往復で約1時間、公園で撮影に1時間。流石に時間がかかりすぎるかな~。他にも撮影する駅も有りますし。

ADVERTISEMENT

桜の季節には多くの観光客が訪れるという情報を見ていたらJR横須賀線の横須賀駅からタクシーで10-15分とあったので、コレにしました。筆者は横須賀線に自宅の駅があるので横須賀駅ならとても便利です。

2020年1月19日日曜日の朝、勇躍出発してJR横須賀駅で1台だけ駐まっていたタクシーに滑り込んで「安針塚駅お願いします」と言うと運転士さんは慣れている様ですぐに向かってくれました。しかし、マジに細い径を曲がったりしながら安針塚の下まで乗せてもらって1000円少々でした。

帰りは安針塚駅まで歩きましたが、横須賀駅からのタクシーが正解でした。下から登山の様ないでたちで登って来る人に何人かすれ違いましたが、剰りの急坂に何人かは途中で休んでいました。

これが安針塚です。各自治体の案内でも三浦按針の塚は安針塚と表記されていました。不思議です。

流石に階段はパスできません。痛む右膝をかばいながらゆっくり登りました。

これが三浦按針夫妻のお墓です。右が三浦按針御本人、左は夫人のお墓です。夫人の出自・名前などは諸説ありますが要はハッキリ分かりません。三浦按針、ウィリアム・アダムスは江戸時代初期に徳川家康に仕えたイングランド人の航海士。1598年オランダ船の航海士として約2年をかけて1600年に豊後臼杵に漂着。当時大阪城に出入りしていたイエズス会士(カトリック)はプロテスタントであるオランダ人イングランド人の処刑を執拗に求めましたが五大老首座の徳川家康はソレを無視。江戸にウィリアム・アダムスを連れ帰った家康は、元船大工のアダムスに造船をさせます。それが成功すると家康はウィリアム・アダムスを250石取りの旗本に取り立て帯刀を許し相模国逸見に領地を与えました。この領地が三浦郡にあったことから三浦、水先案内人を意味する按針を名乗ったのでした。ウィリアム・アダムス、三浦按針は徳川家康の外交顧問になったのです。

しかし家康の死後、鎖国に傾く徳川幕府は按針を冷遇。按針は失意の内に平戸で1620年(元和6年)に没しました。安針塚は、按針の死から14年後、息子のジョセフが母親の死を悼んで建立した供養塔で墓所ではありません。

供養塔の脇にあった石碑。文字では無く小さな像が複数刻まれていて、図像学的にはキリスト教関連という印象ですが詳細は不明です。

安針塚の階段上から見下ろすと塚山公園のトイレが下に見えました。右上には海も。

降りて行くと「かながわの景勝地50選 塚山公園」の石碑。

公園案内図を見て見晴台に登ります。この階段もキツかった・・・。

途中から海が見え始めました。桜で有名な公園ですが、景色を見るのならば葉の落ちている冬がオススメです。

途中にベンチもあります。休みたくなりましたが・・・。

ようやく頂上の見晴台に到着。

先客がいらっしゃいました。体操してます。挨拶をして、お話しを聞いたら天気が良い日はほぼ毎日麓からここまで登って来られるとのこと。そりゃあ、足腰が丈夫になりますよね。

見晴台から横浜側。吾妻島の向こうに住友重機械マリンエンジニアリングの横須賀造船所が見えます。遠くには横浜ベイブリッジ。送電線が邪魔ですね。

横須賀本港の海上自衛隊艦船が見えます。その向こうは米軍基地。少し霞がかかっていて房総半島はハッキリは見えませんね。

さらに右は逆光ですが逸見駅方面かな。この鉄塔からの電線が視界を横切っているのが残念です。

猿島をアップで撮ってみました。横須賀中央のビル群も見えます。向こうに見えているのは富津岬、房総半島です。

この後は見晴台を降りて同じ塚山公園の「港の見える丘」に行きます。

【駅ぶら03】京浜急行80 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)