※2014年3月撮影

トップ画像は、北上線ほっとゆだ駅で列車交換するJR東日本キハ100-44。

北上線は、起点が東北本線の北上駅で終点が奥羽本線の横手駅なので上り列車になります。実は、青春18きっぷ鉄道旅vol.11、9日目、最後の日は未乗だった北上線を通って東京に戻るルートなのです。

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6時起床。昨夜のおにぎり1個の朝食で7時に横手駅に来ました。新しくてキレイな駅です。もちろん新しい駅に「駅そば」はありません。

※2014年3月撮影

横手駅は、1905年(明治38年)国有鉄道の駅として開業。

北上線は、西横黒軽便線・東横黒軽便線として開業し、1924年(大正13年)全線開通して横黒(おうこく)線となりました。横は横手駅、黒は黒沢尻駅(現・北上駅)です。

1962年(昭和37年)沿線で湯田ダムが建設されることで、岩沢~陸中川尻(現・ほっとゆだ)間15kmほどでルートが変更されました。湯田ダムは、1964年(昭和39年)完成しダム湖は、錦秋湖と呼ばれる様になります。この時、大荒沢駅は廃止され信号場になっています。

黒沢尻駅は、1954年(昭和29年)北上駅に改称されましたが、横黒線が北上線に改称されたのは1966年(昭和41年)でした。

※2014年3月撮影

ここから余談。内田百閒先生は、『第一阿房列車』の奥羽本線阿房列車後篇で、横黒線に乗っています。1951年(昭和26年)のことです。その日は横手泊、夜までには時間があったので15時発の横黒線で終点の黒沢尻駅まで行って戻って来るつもりでしたが、10月なので終点に着く頃には外は暗い。車窓を眺めるために列車に乗るのですから意味がありません。

さう云ふ汽車旅行はつまらない。そこで分別を新たにして、もともと終着駅の黒沢尻と云ふ未知の町に、用事があるわけではないから、そこまで行くのをよした。全線六十粁余りの半分より少し先に行つた所に、大荒沢と云ふ駅がある。どんな所だか勿論知らないが、そこで汽車を降りて、十九分待つて、向こうから来る七一五列車で帰つて来よう。大荒沢の着が四時二十三分で、発が四時四十二分である。それならまだ明るい。 旺文社文庫『第一阿房列車』 p.217-218

これが上記の廃止され信号場になった大荒沢駅なのです。横黒線建設中の1924年(大正13年)10月、難所の仙人峠を貫通した仙人隧道の西側に暫定的な終着駅として大荒沢は開業しました。しかし11月には全線が開通し大荒沢駅は中間駅となります。その後、錦秋湖(湯田ダム)建設で大荒沢駅を含む15kmがダム湖に沈むことになり1962年(昭和37年)に現在の新線に付け替えられます。その際に大荒沢駅は廃止され信号場に格下げとなったのです。その信号場も1970年(昭和45年)には廃止され存在しません。

それで大荒沢へ著いた。陸橋もない寒駅で、降りしきる雨の中に、低い屋根や、屋根のない歩廊が濡れてゐるだけなく、改札も手すりも駅長事務室の硝子戸も濡れてゐる。〈中略〉今同じ汽車から降りた学校の子供が十人許り、改札口に押し合ひへし合ひして、改札掛かりが手に持つた書附けで子供を一人一人点検するらしく、名前を聞いて顔を見たり、歳を尋ねたり、ちつとも埒があかない。 旺文社文庫『第一阿房列車』 p.219

驚くのは、1951年(昭和26年)には山奥の大荒沢駅に駅長以外にも複数の駅員がいて、10人の子供が通学していることです。

この錦秋湖の湖底に子供たちの声が響いていた雨の大荒沢駅が沈んでいます。

※2014年3月撮影

今回は余談で話が長くなってしまいました。北上線は次回出発します。

(写真・文/住田至朗)