追分駅に隣接する追分機関区とヤードの広大な跡地。(2020年11月14日撮影)

追分……私には懐かしい地名である。だが、北海道勇払郡追分町(現・安平町)に住んだことはなく、幼少時に旅行で訪ねたこともなかった。

追分は実用としての日本の蒸気機関車終焉の地であり、当時小学生だった私は鉄道雑誌で蒸機の最期を知った。今でも「追分」と聞くだけで、雪深い、しばれる北の大地をあえぎながら走る蒸機の姿が目に浮かんでくる。

日本の蒸機は1960年代頃から、国鉄の動力近代化により活躍の場を急速に狭められ、今から45年前の1975年12月14日に室蘭本線室蘭~岩見沢間のC57 135号機牽引の旅客列車、その10日後のクリスマスイブに夕張線の夕張~追分間を走ったD51 241号機牽引貨物列車を最後に、営業運転を終えた。最終旅客列車の苫小牧~岩見沢間、そして貨物列車の全区間は、追分機関区所属の機関士・助士が担当した。その後、追分駅構内の入換用に9600型蒸機、通称・キューロク3両がかろうじて残ったが、それも翌76年3月2日で運用を終了した。直後に機関区の扇形庫が火災で焼失し、保存展示予定だったD51 241を含む蒸機多数が失われた。

「追分機関区(庫)跡地」の看板も、すでに朽ちている。(2020年11月14日撮影)

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追分町は、駅と機関区を中心とする鉄道の街として栄えた。夕張で採掘された石炭を運び出す貨物列車の拠点だった。蒸機の汽笛やドラフト(排気音)が絶えず響き、機関車が吐き出す煙で空が黒く染まったほどだったという。駅近くには安平川から線路寄りに木造の「鉄道官舎」と呼ばれた職員住宅が建ち並び、国鉄の制服や作業服を着た職員が街を闊歩していた。

追分機関区は激しい組合運動の舞台だった。動力近代化、つまり蒸機全廃による機関助士の廃止、機関区など車両基地の集約に反対し、動力車労働組合(動労)追分支部が当局との闘争を繰り広げた。当局の実施した生産性運動で、一部に国鉄労働組合(国労)への切り崩しがあったとして不当労働行為が認定され、当局に勝利した国労・動労は1975年のスト権奪還ストへと突き進んでいく。だが、スト権奪還はかなわず、闘争は敗北に終わった。国鉄から蒸機が消えたのはその直後だった。ストの影響は尾を引き、最終旅客列車は予定通り12月14日に走ったが、最終の貨物列車の走る日やどの列車になるのか、どの機関車が牽引するのかは直前まで分からなかったそうだ。

国鉄蒸機終焉後、「鉄道ジャーナル」やキネマ旬報社が発行していた雑誌「蒸気機関車」には哀惜調の記事がいくつも掲載された。中でも故・江坂光守氏が鉄道ジャーナルに寄稿したエッセイが印象的だった。ストーブの炎が音を立てて燃える追分駅前旅館の一室。布団にくるまって機関区から聞こえてくる汽笛やドラフトを聞きながら、今夜が追分での最後の夜になるだろう、蒸機が消えたあと観光地でない追分の地に戻ってくることはあるまい、と彼は考える・・・。

国鉄蒸機の本線運転終了45年後の2020年晩秋、私は追分を訪れた。追分へ行くには南千歳から石勝線に乗るのが便利だ。だが、最後の蒸機牽引旅客列車の走った室蘭本線で行きたい。苫小牧から乗った岩見沢行の単行キハ40は千歳線と分岐する沼ノ端を過ぎると非電化区間に入る。小雨の降る中、冬枯れの林と枯草に覆われた勇払原野の寒々とした光景の中を走り、追分着。

追分駅に停車する室蘭本線のキハ40。(2020年11月14日撮影)
追分駅舎。構内にはD51 465の動輪が展示されている。(2020年11月14日撮影)

駅前にはこざっぱりした旅館があった。昔は蒸機ファンの定宿だったという。江坂氏が泊まった駅前旅館も、ここだったのかも知れない。鉄道官舎は取り払われ、高齢者施設、スポーツ施設、立ち寄り温泉などが並んでいる。

蒸機終焉の頃、ファンが多数泊まったという追分駅前の岩手屋旅館。小奇麗に建て替えられている。(2020年11月14日撮影)

機関区とヤードの広大な跡地は、枯草に覆われた空き地となってひっそりとうずくまっている。跡地の片隅に旧安平町鉄道資料館があった。ここにはかつて追分機関区に所属したD51 320号機が静態保存されていた。資料館は2019年、D51 320号機の「道の駅あびら D51ステーション」へ移転のため閉鎖された。

追分機関区跡地に建つ、旧安平町鉄道資料館。(2020年11月14日撮影)
道の駅あびら D51ステーション内部。この奥にD51 320が保存されている。(2020年11月14日撮影)

最後の蒸機牽引貨物列車が走った旧夕張線のうち新夕張~夕張間(後の石勝線夕張支線)は2019年4月に廃止。最終旅客列車が走った室蘭本線のうち、沼ノ端~岩見沢間はJR北海道により「単独維持困難」路線に指定された。

蒸機の火は大井川鐵道へと引き継がれた

新金谷車両区でC11 227を撮影する「かわね路2号」の乗客ら。(2020年10月31日撮影)

北海道で国鉄の蒸機が最期の時を迎える頃、静岡県金谷町(現・島田市)の大井川鐵道新金谷車両区では、C11 227号機の復活へ向けた整備、機関士の訓練が行われていた(※)。作業は国鉄を退職した蒸機運転・検修経験者が中心となり、1976年夏の大井川本線金谷~千頭間の運転開始へ向けて着々と進行していた。そして同年7月8日に報道関係者や地元の招待者向けの運転が行われ、翌9日から営業運転を開始した。蒸機の火は、国鉄から大井川鐡道へと引き継がれた。

※注 当時の社名は大井川「鉄」道。

当時小学校6年生だった私は、同月31日、学校の友人と復活蒸機列車「かわね路」号に乗りに行った。消え去ったはずの蒸機が、現実に生きて力をみなぎらせているのを目の当たりにすると、安堵感に似た不思議な感覚を味わった。黒い飾り気のない鉄の塊の後ろに焦げ茶色の旧型客車が従う、国鉄蒸機そのままの姿だった。

大井川鐡道の蒸機列車の人気に刺激されたのか、当時の高木文雄・国鉄総裁が大井川鐵道に視察に行き、1979年にC57 1号機による山口線「やまぐち」号の運転開始につながった。1987年の国鉄分割民営化後、JR東日本、北海道、九州でも蒸機が復活し、秩父鉄道、真岡鐵道、さらに最近では関東の大手私鉄・東武鉄道でも蒸機が走り出した。

その後大井川鐡道は、C56 44号機を1980年に、さらにC10 8、C11 190などを復活させ、現在では3形式4両の蒸機を運行している。これらの機関車の整備はすべて新金谷車両区で行われている。蒸機の整備技術は着実に受け継がれている。

新聞社勤務だった頃、私は取材のため何度か車両区を訪れた。大井川鐡道では、冬場を除いて蒸機列車は毎日運転されている。車両区では毎朝の出区前、午後遅く戻ってきた後に蒸機から煙が立ちのぼり、汽笛やドラフトが響く。

「当社にとって蒸機は生命線ですからね。これがないと我々の鉄道事業は成り立ちません」
と、ある幹部は言った。

「基本的に毎日運転ですので・・・蒸機は大井川では特別な列車ではない。日常なんですよ」
車両区の検修係は語った。

定期「かわね路2号」の仕業を終えた後新金谷車両区で整備を受けるC11 227。(2020年10月31日撮影)

2020年10月、所用で静岡に行った際に新金谷を訪ねた。JR東海道線金谷駅で下車。ここは大井川鐡道の起点でもある。だが列車がしばらくないため、新金谷まで歩いていくことにした。線路に並行した旧東海道沿いには、民家に交じって個人商店が点在する。飲食店、化粧品店、金物店など、いずれも古びた構えで昭和の香りがする。市街地を抜け、大井川に注ぐ支流・大代川を渡ると右手に煙が上がっている。

「かわね路2号」を牽引して新金谷に帰着したC11 227号機が車両区内で入換をしている。歯切れの良いドラフトや汽笛が構内に響く。列車を降りた乗客らが転車台に乗った機関車にカメラを向けている。

「かわね路」の乗客らが去り静けさを取り戻した車両区では、蒸機の整備作業が行われていた。この日運転を担当した機関士から、検修係に機関車の調子が伝えられる。

明日の蒸機運転へ向けての準備に淡々と、しかしひたむきに取り組む鉄道員たちの姿が、そこにはあった。

新金谷車両区の片隅に、蒸気機関車点火用の薪が積まれている。(2020年10月31日撮影)
「きかんしゃトーマス」用に橙色に塗装された旧型客車と電車改造の展望車。(2020年10月31日撮影)
「かわね路14号」で一足早く新金谷車両区に戻ったC11 190。すでに火が落とされている。(2020年10月31日撮影)

文/写真:小田真