※2022年6月撮影

トップ画像は、雷電為右衞門顕彰碑。何と身長197cmと伝わる力士雷電等身大像が刻まれた高さ277cm、幅143cmの巨大な石碑です。

「天下第一流 力士 雷電之碑」は、雷電の出身地長野県東御市の雷電碑に書かれた佐久間象山の文字を写しています。左にある手形は左手、雷電は左利きだったそうです。

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横の説明板。

※2022年6月撮影

雷電の妻おはんの実家は、臼井の甘酒屋。引退後の雷電は、臼井で静かに余生を過ごしました。

横の墓石と比べると顕彰碑の並外れた巨大さが分かります。

※2022年6月撮影

顕彰碑から元来た道を戻り、熊野神社の筋を北に歩いて太田図書の墓に向かいます。路傍に小さな祠。マップには「道祖神」と表示されました。しかし、民間信仰に端を発する道祖神は、村の境界や峠などに置かれた石碑や石仏が多く、この様な祠のものはあまり見たことがありません。祠の中に小さな道祖神(賽の神)が祀られているのかもしれませんが。

※2022年6月撮影

顕彰碑から500mほど、京成臼井駅から直に来れば1kmほどです。「太田図書の墓」案内がありました。

※2022年6月撮影

正面には「星神社(臼井妙見社)」の鳥居。臼井城の鬼門に建立された妙見神(北斗七星)を祀った神社。

※2022年6月撮影

東に50mほど、臼井城旧三ノ丸跡に太田道灌の弟、太田図書助の墓があります。

※2022年6月撮影

臼井田環境整備委員会の案内板

※2022年6月撮影

内容は以下。

「室町時代の中期、千葉氏一族は、古河公方と管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、二派に分かれた争った。

文明10年(1478)12月、上杉方の太田道灌は、公方方の千葉孝胤(のりたね)を境根原の(松戸市小金)戦いで敗り、敗退した孝胤勢は、一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城へ逃げ帰った。翌文明11年(1479)正月、道灌の弟太田図書助資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が臼井城を包囲したが、城の防備があまりに強固なため、一旦引揚げようとした。その時、城兵がどっと討って出て太田勢と激しい戦となり、遂に落城したが、図書助外53人がこの地で討死したという。」

図書助、その享年はおそらく30歳に満たない若さでした。

※2022年6月撮影

墓の前に「雷電の墓」の案内。ガードレールの向こうは臼井城の空堀が広がっていました。

※2022年6月撮影

エンノ坂を下ってゆきます。

※2022年6月撮影

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京成電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。