【私鉄に乗ろう 69】広島電鉄 宇品線 その1(14)

本通停留場から宇品線で広島港を目指します。本通停留場11:40発の3号線広島港行に乗りました。
300mで袋町停留場。1912年(大正元年)宇品線が紙屋町〜御幸橋に開業した時に開設されました。写っているのは本通方面のホーム。広島港方面のホームに停車しています。肥薩おれんじ鉄道にも袋駅があるのを思い出しました。

300mで中電前停留場。停留場の場所と名前は色々と変遷していますが1971年(昭和46年)に現在の名前になっています。中電というと名古屋に5年ほど転勤していた筆者は中部電力を想起してしまいますが、こちらは中国電力です。明るいのにブレていますね。

300mで市役所前停留場。この停留場も開業した1912年(大正元年)には真菰橋(まこもばし)停留場でしたが、1919年頃、町名変更で真菰町ではなくなって公会堂前停留場に改称。戦時下で休止されていましたが、戦後1946年(昭和21年)に市役所前停留場として再開されました。

ADVERTISEMENT

300mおきに停留場があります。鷹野橋停留場も1912年(大正元年)の開業。橋の名前が残る数少ない停留場です。

300mで日赤病院前停留場。1912年(大正元年)に高等師範前停留場として開業。1929年(昭和4年)広島文理科大学が設立され大学前停留場に改称されました。原爆投下による休止をはさみ戦後新制広島大学になったため広島大学前停留場に改められましたが、広島大学がキャンパスを移転したため2001年(平成13年)に日赤病院前停留場に改称。

400mで、併用軌道の停留場としては妙に豪華な広電本社前停留場です。1912年(大正元年)に開業した時は、広電の発電所がおかれていたので発電所前停留場でした。1927年(昭和2年)頃には電鉄前停留場に改称されましたが、戦後広島電鉄が略称を電鉄から広電に変えたために1958年(昭和33年)現在の広電本社前停留場になっています。手前は千田車庫への引き込み線。

停留場名の通りの広電本社と千田車庫があります。

200mで御幸橋停留場。1912年(大正元年)に宇品線開業時の終点。当時の御幸橋は眼の前の京橋川を渡河するための軌道を敷設する余裕が無く、新たな軌道専用橋を作る必要がありました。徒歩で橋を渡った皆実町六丁目から宇品港までが先に工事されのは、1915年(大正4年)の広島県物産共進会に間に合わせるためでした。1919年(大正8年)には京橋川に新しい橋が架けられ広島駅から宇品までが電車で結ばれました。

1990年(平成2年)に架け替えられた新しい御幸橋を渡ります。

新この御幸橋を渡ると皆実六丁目停留場が見えます、皆実町交差点を右に宇品(広島港)方面に行きます。左は皆実線で広島駅に行きます。

500mで皆実六丁目停留場。当初、1915年(大正4年)宇品から御幸橋の東詰まで宇品線の東側が開業した時は、御幸橋のすぐ東側に御幸橋東詰停留場が置かれました。橋の西側、御幸橋停留場から徒歩で御幸橋を渡って御幸橋東詰停留場から電車に乗り継いだのです。

1919年(大正8年)に新しい御幸橋に軌道が敷かれ電車を降りて歩くこと無く宇品まで行ける様になりました。東詰の停留場は、専売局前停留場として残されました。当時の宇品線の東側は単線で西堤防沿いに敷設されていました。1935年(昭和10年)に現在の宇品通り上に新しい宇品線が敷設されて移設されます。このタイミングで専売局前停留場は廃止されます。この新しい線に作られたのが現在の皆実六丁目停留場です。当時は皆実町停留場でした。1944年(昭和19年)に皆実線(的場町〜皆実町六丁目)が開通すると皆実町三丁目停留場になりました。原爆投下の休止の後再開時に専売局前停留場に戻されます。1949年(昭和24年)頃に専売公社前停留場に改称。現在の皆実町六丁目になったのは1971年(昭和46年)です。

【私鉄に乗ろう 69】広島電鉄 宇品線 その2(15) に続きます。

(写真・記事/住田至朗)