※2023年3月撮影

トップ画像は、柴又八幡神社の境内。

左側に「鳳凰の松」とありましたが説明がないので何故鳳凰なのかは分かりません。鳳凰は中国神話に出てくる伝説の鳥。日本でも京都平等院の国宝鳳凰堂や(焼失前は国宝だった)鹿苑寺金閣寺の屋根にとまっています。

ADVERTISEMENT

※2023年3月撮影

葛飾区の登録有形文化財「柴又用水の碑」

※2023年3月撮影

葛飾区教育委員会の案内板の内容は以下です。

「根府川石の不整形板石碑で、明治6年(1873)銘の訓導(旧制小学校教員)橘田春湖による銘文が刻まれています。

銘文によると柴又は土地がやや高く、昔から水の利用に苦労が絶えませんでしたが、天保6年(1835)に鈴木幸七の手によって用水路が引かれ、窮状が克服されたことがわかります。さらにこの事業の結果、堤防も堅固にされ、洪水も防がれたことがわかります。

この碑は鈴木幸七にたいする顕彰碑であると同時に、明治初年における当地域の農耕水利開発の由来を示す点でも注目すべき祈念碑です。 東京都葛飾区教育委員会」

社殿、神様にご挨拶します。

※2023年3月撮影

神社入口にあった案内の内容を写します。

「八幡神社の社殿裏手に古墳の石組らしきものが露呈していたことから、いつのころからか古墳ではないかといわれてきました。

昭和40年(1965)から何度も調査を行った結果、今の社殿を中心として直径20mから30mの規模を有する円墳であることがわかり、社殿裏手の石組は、遺体を安置する石室であることが判明しました。古墳の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬などの形象埴輪がめぐらされていたこともわかりました。出土した遺物は、埴輪のほか直刀・馬具・鉄鏃※・須恵器などがあり、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)に構築されたものと考えられます。平成14年(2002)、この古墳の周りにはりめぐらされていた溝から「寅さん埴輪」が出土しました。

東京低地では石室を伴う古墳は本例のみで、この地域での古墳文化を研究するうえで貴重な考古学資料です。 葛飾区教育委員会」

※鉄製のやじり

この古墳石室にあった遺体を安置したのが社殿背後の島俣塚です。八幡神社古墳も御参照ください。

※2023年3月撮影

島俣塚の横、境内社がありました。祭神などは詳細は分かりません。

※2023年3月撮影

社殿の西側にあった石仏群。中央は剥落が激しく判読できません。左は水神が二柱、右には八幡宮、馬頭観音がありました。馬頭観音は「柴又村」が辛うじて判読できました。

※2023年3月撮影

柴又八幡神社を辞去して京成金町線の東側に戻ります。踏切の東側のこの喫茶店が気になりました。「キャンディ・キャンディ博物館」と掲示されています。

※2023年3月撮影

帝釈天参道に来ました。右に寅さんを演じた渥美清さんが寄贈した常夜灯。

※2023年3月撮影

こちらは嘉永2年(1849)に建立された帝釈天王安置の碑。桜が満開です。

※2023年3月撮影

さらに参道を進みます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京成電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料:『京成電鉄85年の歩み』(1996年/総務部編)『京成電鉄100年の歩み』(2009年/経営統括部編)他