ほとんど「大國魂神社」まで歩いてしまいました【駅ぶら】06京王電鉄 京王線150
※2023年8月撮影
トップ画像、名刹「高安寺」で「辨慶の硯の井戸」を見た後「旧甲州街道」に戻り、また東に歩いています。「府中市郷土の森博物館」の案内板。「高安寺」から60mです。
その脇に「府中市由来碑」がありました。「鹿島坂」。下河原緑道と旧甲州街道が接する角です。
※2023年8月撮影
書かれていた内容は以下です。
「坂の名は、大國魂神社の例大祭に深い関わりのある人名に由来するといわれます。五月の例大祭に「国造代奉弊式(ほうべいしき)」という古式があります。これは、国造代(奉弊使)が神馬に乗って坪の宮におも向き、神輿渡御(みこしとぎょ)の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉弊を行うというものです。この式は、古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に、名前の一部をとって「鹿島坂」となったようです。」
足下に「ちはやふる in 府中」のマンホールの蓋。
※2023年8月撮影
府中市と府中市観光協会が展開したキャンペーンの様です。
旧甲州街道からちょっと裏道に入ると魅力的な蔵がありました。
※2023年8月撮影
盆踊りの準備がされています。「番場公園」右後には「一之宮 御本社 番場」の木札。
※2023年8月撮影
「府中市由来碑」「番場宿」がありました。
※2023年8月撮影
記載内容は以下です。
「番場宿は、現在の宮西町2・4・5丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場は、もとの名を茂右衞門宿といいます。これは、この土地が名主茂右衞門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永13年(1636)のことといわれています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「家数103軒、(甲州)街道の左右に簷を連ね」とあります。もともと番場宿は、ハケ沿いの甲州古街道筋にありましたが新街道の設置(慶安頃=1648~52)に伴って移転したものです。地名の起こりは、不明ですが、馬場の転訛とか、番所があったからとの説があります。この地域には、高安寺、長福寺などの古刹があります。」
簷(のき)は難しい字ですね。
さらに旧甲州街道を東に歩いて「府中市役所前」交差点まで来てしまいました。これはほとんど「大國魂神社」の手前ですよ。極度に暑いのに歩き過ぎです。(笑)
「府中市由来碑」の「甲州街道」
※2023年8月撮影
「甲州街道の名は、この道が甲州に通じることに由来します。この道は、慶安頃(1648~52)に開設された江戸と甲州を結ぶ幹線道で、五街道の一つです。」と至極当たり前のことが刻まれています。
その横に「東京都教育委員会」の案内板がありました。
※2023年8月撮影
その内容。
「東京都指定旧跡 府中高札場
江戸時代に、禁制・法令等を伝えるために掲げた板札を高札といいます。高札は交通の多い場所などに掲げられましたが、このような場所は高札場と呼ばれます。府中高札場は、甲州街道、川越街道及び相州街道が交差する府中宿の中心を占める場所でした。高札場の裏手は、大國魂神社の御旅所があります。札掛けは屋根を有しており、ここに6枚くらいの高札が掛けられていたといわれています。
この高札場の建物に関しては、江戸時代後期から末期にかけての年代が推測されています。」
府中街道を渡って高札場。
※2023年8月撮影
「府中駅」の方が全然近いのですが、「分倍河原駅」に戻りました。
帰路、極度に直截的な店名の酒屋さんがありました。「Osakaya」です。
※2023年8月撮影
帰宅してマップで確かめたら「おおさかや(大坂屋酒店)」さんでした。失礼いたしました。それでローマ字のOが赤だったのかな・・・。
次回は「分倍河原駅」から「中河原駅」に向かいます。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)