京急大津駅の浦賀側踏切を渡ると小さな公園があります。「大津おりょうさん公園」です。

公園の脇に設置された郵便ポストの上にブロンズ像が置かれています。「龍馬とおりょうの恋文ポスト」と標されています。

横に看板がありました。それによると湘南学院高等学校の「おりょうプロジェクト(生徒会・美術部・パソコン部・写真部)」がクラウドファンディングで集めた基金で像を作ったということです。

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この「恋文ポスト」が、おりょうさんゆかりの地のシンボルとなり、横須賀大津がより多くの人に知られるところとなり、訪れる方が増え、また手紙文化が薄れている中、手で書く文字や文章の良さを見直すきっかけとなれば幸いです。

・・・と書かれています。

道なりに南に歩いてゆくと「信楽寺」の案内看板がありました。

ほどなく「信楽寺」山門が見えてきました。

横に大津探訪くらぶ(大津行政センター市民協働事業)の看板が立てられています。浄土宗信楽寺は、永正元年(1504年)開山と言われる古いお寺です。

本堂。端正な佇まいです。右上に鐘楼が見えています。

本堂の横に「見かえり観音」。

墓地にお邪魔しておりょうさんのお墓に参ります。

贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓 となっています。坂本龍馬(享年31歳・満年齢 以下同じ)が正四位に叙せられたのは1891年(明治24年)、同じ年に高杉晋作(享年27歳)、土佐勤王党の武市半平太(享年35歳)、龍馬と同席し殺された中岡慎太郎(享年30歳)、他に久坂玄瑞(享年24歳)など幕末の志士たちが叙勲されています。

横に「市制施行七十周年記念 横須賀風物百選」として坂本龍子の墓という看板がありました。

以下は、内容全文を写しました。

江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。

龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永三年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。

坂本龍馬は、慶応三年(1867)十一月十五日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、三十三歳の若さで絶命しました。

未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治八年七月二日、三浦郡豊島村深田二百二十二番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治三十九年一月十五日の午後十一時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治三十九年十月二十日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。

30年以上結婚していた西村松兵衛さんの影が薄いですね。

信楽寺には「保久利地蔵」が置かれていました。

個人的には六地蔵よりも右下の小さな地蔵様二体が良いと感じました。

信楽寺から京急大津駅に戻る途中でもう一度鐘楼を見上げました。膝が痛かったので諦めましたが、登れば良かった。

駅までの帰路で見かけたお店。なかなかユニークです。種屋さんです。

京急本線の残すところ2駅になりました。

【駅ぶら03】京浜急行97 に続きます。

そうそう、今日は七夕ですね。星空が見えると良いですね。

(写真・記事/住田至朗)