トップ画像、こちらは12色のダルマ。「パンダ」「阪神」「巨人」ダルマもあります。何だかカラフル過ぎでオモチャっぽい感じがしますね。

正面の大山門を入らず、戦後福島県から移設され大山門が1977年(昭和52年)に建立されるまで山門だった不動門をくぐります。亡き父に連れて来られた時に筆者がくぐった山門はこちらだったのです。

不動門に大きなわらじが飾られています。

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正面は不動堂。明治23年(1890年)成田山新勝寺の本尊不動明王を勧請して創建。現在のお堂は1964年(昭和39年)の再建。

横から大山門。

1977年(昭和52年)開創850年記念事業で落慶しました。上部は経庫になっていて写経された経文などが収められています。

大山門には「誰が浄財を出したか」が表記された提灯。というか川崎大師境内はこの「誰が浄財を出したか」の展示場の様で些か鼻白む思いでした。

こちらは弘法大師1150年御遠忌・大開帳記念で1984年(昭和59年)に落慶した中興塔、八角五重塔。二層に恵果和上像、弘法大師像、興教大師像、両界曼荼羅、初層には真言八祖の図像、金剛界五智如来像、さらに地下大師地区慰霊堂に釈迦如来が納められています。

大山門を入った右側に聖徳太子堂があります。弘法大師空海(774-835)は奈良仏教から平安仏教への転換の先にたった僧でしたが、厩戸皇子(うまやどのみこ574-622)聖徳太子は蘇我馬子と共に仏教、儒教を取り入れ神道(天皇の御子息です)と隆興に務めた皇族です。弘法大師空海は聖徳太子の約120年後に生まれています。どの様な関係があったのか分かりません。

川崎の鳶工業連合会、川崎古式消防記念会などの川崎大師聖徳太子講などによって建立された様です。

京都の真言宗醍醐派総本山醍醐寺の清瀧権現を祀る清瀧権現堂。真言宗醍醐派は真言宗古義派です。

川崎大師平間寺は真言宗新義派の智山派大本山です。他に成田山新勝寺、高尾山薬王院が同格の大本山。総本山は京都の智積院。

筆者は真言宗が13世紀に古義派と新義派に分かれ、そこからさらに多くの分派が分かれたということ程度しか知りません。灯篭の手前に長い文章がありました。読み始めましたが途中でイヤになって挫折しました。

せっかく来たので大本堂の本尊厄除弘法大師にお詣りします。こんなに人のいない川崎大師境内は珍しいのでは?

手を清めてお詣りと思いましたがコロナ・ウィルスでお水屋の水は止まっています。手を洗わずにお詣りしたくないので参拝は中止しました。

大本堂前の献香所。参拝者が少ない為かお線香はお寺の方が時々足しています。

境内をフラフラします。これは長十郎梨の発見者当麻辰次郎(文政九年/1826年~明治三十八年/1905年)の遺功碑。漢文を読み下すのは面倒なので最後の大正八年三月という建立日だけ記しておきます。長十郎は今ではほぼ全滅状態です。筆者は未だに時々子供の頃好きだった長十郎が食べたくなりますが作られていないのです。小学校の遠足で多摩川に梨もぎに行った時も長十郎梨でした。硬くて美味しいんだけどなぁ。

これは面白い!瓢(ふくべ)の形です。施茶翁塚。川崎大師さんのホームページによれば、

当時の江戸の医者、羽佐間宗玄は、俗世をのがれて芝愛宕町に閑居し、雅号を瓢仙と称し、つねにふくべを愛蔵し、人に抹茶をたてるのが楽しみで施茶翁、と称されたという。

但し、塚といっても、供養されたものは、茶筅や、瓢などである。

境内には不思議なものがたくさんあります。

川崎大師、境内がすごく広いので全てをまわるワケではありませんが、まだ境内見学が続きます。

【駅ぶら03】京浜急行130 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)