目的だった新井城址が進入禁止でちょっとがっかりしながら道を先に進みます。左には油壺湾の奥にある三崎マリンと三崎ヨットクラブに泊まる優美なヨットたち。

道の海(左)側に「東京大学地震研究所 油壺地殻変動観測坑入口」がありました。「観測中立入禁止」ということは観測していない時は入れるの? って施錠されてますけど。新井城址の手前に「東京大学地震研究所 油壺地殻変動観測所」がありました。その観測現場があるということですね。

大きな句碑があります。

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外海は荒れゐて 月の油壺 八十翁 大愚

この俳人、田辺大愚という方を知りません。調べたら大和市の出身。明治生まれで大正年間に三浦に移り住み、地元の風土を詠んだホトトギス・高浜虚子の門下でした。

眼下には油壺湾、こちらは正面が東向き、左が湾の奥になります。

右(南)側は外海への出口ですが見えませんね。

湾に浮かんでる、何でしょう?「係留禁止」とあります。航空写真で確認すると同じ場所に浮いている様です。海鵜(ウミウ)が2羽遊んでいます。

三浦市の案内があります。

内容を写します。

油壺湾

油壺の名のいわれは、永正十三年(1516年)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立て篭もった三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し一族の将三浦道寸(どうすん)義同(よしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしもと)は自刃、他の将兵も討死、または油壺湾へ投身したと伝えられ そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流した様な状態になったので後世「油壺」といわれるようになりました。

北条五代記には、三浦一族全滅の模様を次のように記しています。

「今も七月十一日には毎年新井の城に雲霧おおいて日の光りも定かならず、丑寅の方と未申の方より電(いなずま)かがやき出て両方光入乱れ風猛火を吹き上げ光のなかに異形異類の物有りて干戈(かんか)をみたし、虚空に兵馬馳せ散り乱れ天地をひびかし戦う有様おそろしきと言うばかりなり云々」

 

三浦市

後半の北条五代記の内容がイマイチ分かりません、とにかく「凄かった」ということでしょう。湾が油を流した様な血汐で染まったコトから油壺、平和で静かな風景からは想像を絶する様な凄惨さです。

句碑、看板を過ぎてさらに先に進みます。

油壺湾と反対の右側に眺望が開け、ビーチに降りる階段がありました。

海水浴場の様です。

もちろん初春というには早すぎる3月12日。しかもコロナ・ウィルス感染拡大騒動で平日ということもあって晩冬の海水浴場に人の気配はありません。

三浦市の観光案内があります。ここは荒井浜海水浴場です。

こちらには血汐が流れていないかな。海浜の光景、冬の日を散歩します。

【駅ぶら03】京浜急行157 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)