佐賀藩が蒸気車ひな形を製作

ここから取材ノート読み返しながら、佐賀・長崎の鉄道のアナザーヒストリーをたどります。

幕末の佐賀藩は、長崎警備の強化を目的に、近代的な海軍の創設を目指していました。1852年には「精錬方(せいれんかた)」という研究所を創設して、長崎で手に入れた蘭学書などから蒸気機関の研究を始めました。

プチャーチン率いるロシアの軍艦「パルラダ号」が長崎に入港すると、精錬方の研究者は艦上で蒸気車ひな形の実走を目の当たりにします。ひな形は今も使う表現ですが、ここでは模型のこと。精錬方は1855年、蒸気車ひな形を完成させました。

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ひな形は全長39.8センチ、車輪幅(軌間)14センチ、高さ31.5センチ。ボイラーに煙突と片側2輪の動輪を付けた簡素な構造で、実物のSLにある前後の動輪をつなぐ棒状のロッドはありません。燃料はアルコール、名称は蒸気車ですが、2本のレールの上を走るれっきとした「鉄道」でした(ひな形は、「日本最初の鉄道模型」の見方も)。

グラバーが大浦海岸でSLをデモンストレーション

次いで、10年後の1865年には長崎の大浦海岸で小型蒸気機関車の試運転が実施されました。試運転を行ったのは、今もグラバー邸が長崎の観光名所として残るスコットランド出身の商人・トーマス・グラバー。どうやらグラバーは、日本の鉄道採用をもくろんだようです。グラバーは大浦海岸に600メートルのレールを敷き、SL「アイアン・デューク号」が2両の客車をけん引しました。

佐賀藩の蒸気車やグラバーのSLと、明治になって政府主導で建設した鉄道の関係は不明です。しかし、長崎市の旧イギリス領事館跡地には、「我が国鉄道発祥の地」の碑が今も建ちます。

「我が国鉄道発祥の地」は長崎電気軌道(路面電車)のメディカルセンター停留所そばの長崎みなとメディカルセンター前にあります(写真:y.u-stable / PIXTA)

高輪築堤建設を決断した佐賀出身の偉人

佐賀・長崎のアナザーヒストリーの締めくくりは、2022年10月に東京の日比谷公園で開かれた「鉄道フェスティバル」のレポートでも触れさせていただいた、佐賀出身の明治維新の立役者・大隈重信と鉄道建設をめぐる秘話。

日本最初の鉄道、新橋―横浜間約29キロのうち田町―品川間を中心とする約2.7キロは海上に築堤を建設して、その上にレールを敷きました。この区間には兵部省の軍用地などがあり、用地買収に難航したためです。

この時、築堤建設を決断したのが大隈。「鉄道の父」と称される井上勝(鉄道頭、鉄道庁長官など)は、「ついに隈公(わいこう。大隈のことです)の英断をもって海面を埋築し、線路を通過せしめしものなり」と回顧しました。

この築堤こそ、JR東日本の「高輪ゲートウェイシティ(仮称)」で話題を集める鉄道遺構の「高輪築堤」。佐賀県は郷土の偉人・大隈の「志」を学び、未来につなぐ事業として「築堤の石」を譲り受け、佐賀城公園に築堤を再現。西九州新幹線開業に先立つ、2022年4月15日にお披露目されました。

佐賀・長崎の鉄道の正史と(アナザー)ヒストリーは以上です。これからの鉄道史はもちろん西九州新幹線、そして新しいD&S(デザイン&ストーリー)列車「ふたつ星4047」が書きつないでいくはずです。

新しい観光列車「ふたつ星4047」。JR九州の特急・観光列車といえばこの人、工業デザイナーの水戸岡鋭治さんが設計・デザインしたふたつ星は西九州新幹線との二人三脚で地域観光に新風を吹き込みます(写真:鉄道チャンネル編集部)

記事:上里夏生