車返という地名の起源は源頼朝【駅ぶら】06京王電鉄 京王線123
※2023年6月撮影
トップ画像、武蔵野台駅南口のスーパーマーケットの脇道を下りた多摩川「崖線」の上のT字路を東に歩いてきました。「浄土宗 八幡山本願寺」山門です。
ここに素晴らしい「庚申塔」。上部の「日月」、鼻が欠けていますが「青面金剛像」は良い状態です。台座部の「三猿」もハッキリ分かります。残念なことに建立などの文字は分かりませんでした。
※2023年6月撮影
「庚申塔」の横に「府中の名木百選 本願寺のサイカチ 樹高12.5m 幹周2.3m」と表札がありました。いったん来た道を戻って写しました。木が多いのでちょっと分かり難いですが、「庚申塔」後、右端の木です。
※2023年7月撮影
山門前に「車返」の碑。府中市が市内の古い地名などの由来を伝えるために設置した「由来碑」です。この後も【駅ぶら】に何度か登場します。
※2023年7月撮影
記載内容は以下です。左の金属板は腐食が進んでいて判読できませんでした。
「車返(くるまがえし)は、現在の白糸台2・4・5丁目の一部(旧甲州街道・いききの道沿い)に集落の中心があった村落です。
幕末の地誌『新編武蔵野風土記稿』には「家総数で八九軒、西を上とし、中央を中といひ、東方を下といふ」とあります。古名を白糸村と称します。
地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営をしたところ夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し車はもとへ返したことに由来するといわれます。旧境内跡地(市立第四小学校西側)には、彦四郎塚・首塚と呼ばれる古塚が現存し、往古をしのばせています。」
お地蔵様も列んでいらっしゃいます。
※2023年6月撮影
本願寺を過ぎて30mほどで北側に鳥居が見えました。
※2023年6月撮影
「車返八幡神社」です。境内に巨木が列んでいます。
※2023年6月撮影
ここも現地に由緒など書かれたモノが見当たりません。神様にご挨拶しました。
※2023年7月撮影
拝殿背後に本殿があります。ネットなどには本願寺の守護神として天正年間(16世紀)に創建されたという記事が幾つかありましたが詳細は分かりません。
※2023年7月撮影
拝殿前には「皇紀二千六百年記念 国威宣揚」サイドに「車返 青年団 女子青年団」と刻まれています。1940年(昭和15年)は、太平洋戦争開戦前年でした。手水にも「車返青年団」と刻まれていました。
※2023年7月撮影
境内の石碑群。
※2023年7月撮影
左端の「庚(申の字は欠落?)塔」には「天保八丁酉〇九月」と刻まれていました。1837年、天保の大飢饉で大塩平八郎の乱が起こった年です。その隣は上が折れていて「塔」の文字だけです。右の石碑2基はよく分かりません。
武蔵野台駅に戻ります。
※2023年6月撮影
次回は、武蔵野台駅から多磨霊園駅に進みます。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)