※2024年3月撮影

トップ画像は、「大宮八幡宮」の御神門。方南町に住んでいた頃、筆者は、天気が良ければ週末はだいたい「大宮八幡宮」をお詣りして、永福町の商店街をプラプラして帰るというのが散歩コースでした。かなりの回数、こちらにはお詣りしています。

しかし三浦半島に隠棲して7年が経ち「大宮八幡宮」にお詣りするのは久しぶりです。

まず手水舎で手・口を浄めます。

※2024年3月撮影

多摩清水神社があります。この多摩の清水は「多摩の大宮」といわれた武蔵野の昔を想望してつくられ、今なお、御神水がわき出しています。

※2024年3月撮影

「ここは東京のへそ」の掲示板。大東京の重心(東経139度38分45秒 北緯35度40分54秒)と書かれています。

※2024年3月撮影

右から杉並区教育委員会の「杉並区指定有形文化財 木造随身座像」「同 木村常陸介 前田孫四郎 制札」「同 和田堀公園大宮遺跡 方形周溝墓出土遺物」と「大宮八幡宮」の案内。

※2024年3月撮影

案内板の記載内容は以下。ちょっと長いですが貴重な情報満載です。

「当社は古く、江戸八所八幡に数えられた大社です。大宮の名は、広大な境内をもつ社であったことから、社名とも、また鎮座地の地名になったといわれ、秩父の大宮(秩父神社)、足立の大宮(大宮氷川神社)と共に武蔵国三大宮の一つ「多摩の大宮」、あるいは「武蔵気に八幡一之宮」と称され、令和5年(2023)年に鎮座960年を迎えました。

祭神は応神天皇(品陀和氣命)、仲哀天皇(帯中津日子命)、神功皇后(息長帯比売命)の3柱で当宮に伝わる縁起には、第71代後冷泉天皇の天喜年中(1053~57)に奥州で乱が起き、この乱を鎮めよとの勅令(永承6(1051)年)を受けた鎮守府将軍源頼義と子の義家(八幡太郎)がこの大宮にさしかかると、白雲が八つ幡のようにたなびく瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じ勝利を得ることができた(前九年の役)。この報賽のため康平6(1063)年、この地に源氏の氏神である八幡大神の分霊を京都の石清水八幡宮より戴いて祀ったのが、当宮の創建である。

と記されています。また、和歌山県の熊野那智大社には、貞治元年(1362)12月に大宮の社僧が熊野那智大社に参詣した事を記した文書(米良文書)が伝わっており、その頃から当社に奉祀する社僧が存在したことがわかります。

江戸時代には代々朱印地30石を与えられて、大名や武士たちからも武勇の神として崇敬されてきました。

昭和44(1969)年には、善福寺川に面する旧境内地から、弥生時代の有力者の墓とみられる方形周溝墓3基が発掘されました。方形周溝墓からは、弥生時代後期の赤彩された土器や、集落の有力者が生前に着用していた装飾品と思われる勾玉やガラス小玉が発見されました(昭和57(1982)年、杉並区有形文化財に指定)。また川の対岸の松ノ木遺跡には同時期の住居群が分布することから、この方形周溝墓は松ノ木遺跡を構成していた有力者の墓であることがうかがわれます。

社宝には、木村常陸介 前田孫四郎制札(豊臣秀吉の制令)(杉並区指定有形文化財)・由井正雪の絵額・山岡鉄舟筆の幟・武術練達祈願の額・木造随身座像(杉並区指定有形文化財)・境内出土瓦(境内から出土した鎌倉時代の瓦)(杉並区指定有形文化財)などがあります。

令和6年 杉並区教育委員会」

その横には「大正十五年九月吉日」と刻まれた「百度石」。

※2024年3月撮影

御神門の両側に飾られた正月絵馬。右側は「令和甲辰歳 厄除八幡さま」。

※2024年3月撮影

左に「令和甲辰歳 子育八幡さま」。12年前に初詣に来ましたが、残念ながら絵馬は撮影していませんでした。

※2024年3月撮影

御神門をくぐると両脇に「夫婦銀杏(めおといちょう)」があります。こちらは樹高約26メートルの男銀杏。

※2024年3月撮影

反対側に、女銀杏。

※2024年3月撮影

御社殿の前から神門と両脇の「夫婦銀杏」、左の高い方が「男銀杏」です。

※2024年3月撮影

「大宮八幡宮」参拝続きます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)