※2023年7月撮影

トップ画像は「大國魂神社」東側「国史跡 武蔵国府跡」の前にある「府中市由来碑」の「ほそま」。

刻まれている文言は以下です。

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「細馬(ほそま)の名は。この道が朝廷へ貢進する良馬(細馬)を試走させた馬場だったことに由来します。「延喜式」によれば、武蔵国は五十頭の馬を貢進することが定められていたようです。」

「大國魂神社」東側の道をそのまま北に歩きました。「府中市由来碑」の「京所道」があります。

※2023年7月撮影

記された内容です。

「京所道(きょうづみち)の名は、この道が京所の中心を通ることに由来します。この道は、甲州街道が開設(慶安頃1648~52)されるまで、初期の甲州への道として重要な役割を果たした道です。」

京所(きょうづ)が分からないとちょっとチンプンカンプンですね。

ではその「京所」の「府中市由来碑」の方に歩きます。強い陽射し、凄まじく暑いです。

※2023年7月撮影

手前に「庚申塔」がありました。「大四年五月建立」と刻まれています。1916年ですから、欧州では第一次世界大戦(1914~1918)が戦われていました。そんな時代に庚申の夜を過ごしていた人々がいたのですね。

※2023年7月撮影

「庚申塔」の反対側に「府中市由来碑」の「京所」があります。

※2023年7月撮影

書かれていた内容は以下です。

「京所(きょうづ)は、現在の宮町二丁目の一部・三丁目(京所道沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は、六所宮( 大国魂神社 )の社領で八幡宿に属しており、『 新編武蔵風土記稿 』(幕末の地誌)には「六所社領」の小名としてその名が見えます。
地名の起こりは、経所(きょうじょ)が転訛したものといわれており、ここに 国府 の写経所のような施設があった名残だと伝えられています。延宝六年(1678)の六所明神領の地検帳には「きょう女」の字があてられています。京所のように「京」のつく地名は、国府の所在地には多くあります。この地域からは数多くの掘立柱建物跡が検出されており、 武蔵国 の国府(国衙)跡として有力なところです。」

「京所(きょうづ)」はこの辺りの地名でした。最初、筆者は「朝廷のある京の都」と何か関係あるのかと思いました。本当に歴史が濃く流れる場所です。

陽射しの下「大國魂神社」の方に戻ります。融けてしまいそうです。(笑)

※2023年7月撮

東側の門から「大國魂神社」にお詣りします。写真右手前に「京所道」の「府中市由来碑」が見えています。

※2023年7月

「随神門(ずいじんもん)」、巨大な木造の門です。門の神様「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」の御姿が見えます。

※2023年7月

門に入る前に「手水舎」で手と口を浄めます。

※2023年7月

「手水舎」は、2011年(平成23年)「大國魂神社御鎮座壱千九百年記念」の際に改修されこの場所に移築されています。

改めて「随神門」を正面から撮影。高さ8.5m、幅25mという木造としては珍しい巨大な門です。

※2023年7月

次回に続きます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)