※2023年8月撮影

トップ画像、「旧甲州街道」をさらに東に歩きました。また「府中市由来碑」があります。

「片町」です。

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※2023年8月撮影

内容は以下です。

「片町(かたまち)は、現在の片町1・2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。

この集落は番場宿に属しており、幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「番場宿」の小名としてその名が見えます。

片町は、徳川家康が江戸に入城後、新しく整備した甲州街道の開通(慶安頃=1648~52)に伴ない、街道に沿ってできた町です。

地名の起こりは、街道の南側に名刹高安寺があり、町場が北側の片方だけに発達したことによります。この辺りには、国府に関連する片町・高倉遺跡などがあり、発掘調査の結果、居住址が数多く発見されており、古代にはかなりの規模の集落が存在していたようです。」

周囲の近代的な住宅を見ながら読んでいると時間の感覚が揺らぎそうになります。

さらに旧甲州街道を進んでいくと、すぐ先に名刹「高安寺(こうあんじ)」の総門がありました。

※2023年8月撮影

境内案内があります。「弁慶の井戸」は本堂の後方「秀郷稲荷」の右側にあります。

※2023年8月撮影

高安寺内の「当山略縁起」に拠れば、

「当山は往古、田原藤太秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて、安国利生の祈願所として、龍門山高安護国禅寺を再建した。これは尊氏が全国(六十六ヶ国二島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。

当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で開山は大徹心悟禅師であった。時に暦應年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も七十五院あり、寺領も広く東は代田村(世田谷区)、西は貝坂(立川市)、南は向山(川崎市)、北は山口(所沢市)に及んだという。

その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北条氏の庇護も受けたが、暦年の兵戦を経て衰えて大刹の姿も失っていった。時に慶長年間青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が、当山を再興し、済派を改めて曹洞宗となり今日に至る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として、毎朝朝課前に、大般若経転読の祈祷を行っている。

本尊 釈迦牟尼如来(文珠、普賢の三尊仏)

みどころ

1 弁慶硯の井 見性寺と呼ばれた頃の事。義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが、鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足どめし、弁慶等と叔免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったので弁慶硯の井の遺蹟がある。

2 秀郷稲荷 田原藤太秀郷公を当山鎮守として裏山に祀る。

龍門山高安寺」

凄い歴史のあるお寺です。

総門前に「六地蔵」。

※2023年8月撮影

総門を入って50mほどで参道は右に直角に曲がります。その角に可愛らしい「双体道祖神」がありました。左の案内板は「東京都生活文化局」の「東京都選定歴史的建造物 高安寺本堂・山門・鐘楼」。

※2023年8月撮影

大きな山門があります。

※2023年8月撮影

「東京都生活文化局」の「東京都選定歴史的建造物 高安寺本堂・山門・鐘楼」によれば、

「建築年 山門 明治5年(1872)

〈前略〉

山門は、本堂の東方に位置する規模の大きい二重門である。木造(柱・梁等の構造材は全て欅)二階建てで、屋根は入母屋造銅板葺、柱はすべて円柱である。初層の左右からも出入りできる点に特徴がある。〈後略〉」

※本堂、鐘楼については該当の写真のトコロで引用します

※2023年8月撮影

扁額を見上げます。

※2023年8月撮影

両側の「仁王像」が「阿吽(あうん)」の形で寺院内に仏敵が入らない様に守護しています。

※2023年8月撮影

右側が「阿形」。

※2023年8月撮影

左は「吽形」。

※2023年8月撮影

実はこの門の寺院側にも素晴らしい彫刻があります。それは次回。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)