百草園の歴史が分かります【駅ぶら】06京王電鉄 京王線166
※2023年8月撮影
トップ画像は「京王百草園」出入口。ここからも階段が続きます。約50種500本の梅が春の到来を知らせる日野市指定の史跡・名勝です。日野市観光協会のサイト。
この日も猛暑日、Tシャツの裾から汗がポタポタ垂れています。ほとんどバケツで水をかぶった状態。門の内側、ミストが噴霧されていて超気持ち良い!
※2023年8月撮影
利用者の少ない週明けの正午に来ました。狙い通り、筆者の他にお客さんはいません。終始一人で「百草園」を堪能できました。入口で入場料300円(※)を払います。
※2023年11月1日、大人500円/小人100円に料金改定されました。
※2023年8月撮影
階段よりスロープの方がヒザに優しいので左から行きます。
※2023年8月撮影
「百草園 園内ご案内図」があります。
この後、あずまや~寿昌梅/松連庵~三檪庵~心字池~子育地蔵尊~松尾芭蕉句碑~見晴台というコースを歩きます。芭蕉天神はパスします。「京王百草園」のサイトもご覧ください。
※2023年8月撮影
茅葺きの四阿(あずまや)。
※2023年8月撮影
今回、園内で咲いていたのは、この「ノウゼンカズラ」くらいでした。夏の季語です。
※2023年8月撮影
左の石塔。よくお寺の入口にある「不許葷酒入山門」ですが「不許」の部分がありません。説明板には「以前園内の土中から出てきた」と書かれています。
※2023年8月撮影
松連庵への階段を上がります。
※2023年8月撮影
寿昌梅の向こうに松連庵。
※2023年8月撮影
松連庵の前に日野市教育委員会による案内板があります。
※2023年8月撮影
ここで日野市教育委員会による「百草園」と「寿昌梅」の案内板の内容を写します。
「百草園(松連寺跡)
百草園のある百草地区一帯には、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、鎌倉幕府の御願寺であった真慈悲寺があったと推定されている。
その後この地には松連寺という寺院が建立された。この寺は江戸時代中期に、小田原藩主大久保加賀守忠増の夫人であった寿昌院慈岳元長尼が再興したことで知られている。江戸近郊の名所として『江戸名所図会』などにも紹介され、大田南畝ら多くの文人墨客が訪れたが、明治になって廃寺となった。
明治20年(1887年)に百草出身の貿易商青木角蔵が、庭園百草園として一般に公開し、北村透谷や若山牧水ら多くの著名人が訪れた。
現在は京王電鉄株式会社の所有となり、梅の名所として広く知られている。」
「寿昌梅の由来
ひときわ目を引く梅の古木は徳川家康長男岡崎三郎信康追悼のため寿昌院(寿昌院慈岳元長尼)が植樹したと伝わる。寿昌院は小田原藩主、江戸幕府老中の大久保忠増の夫人で、享保2年(1717年)に黄檗宗の高僧慧極道明を開山僧とし、この地に慈岳山松連寺を開基した。
大久保氏は徳川家康の三河時代からの忠臣であったが、初代の大久保忠世が預かる遠江国二俣城で、天正7年(1579年)に岡崎三郎信康が謀反の疑いをかけられて自刃するという大きな事件がおきる。この事件以降、140年間にわたり大久保家では信康とその母築山御前の追悼のための寺院を各地に度々建立しており、慈岳山松連寺の創建理由や寿昌梅植樹伝説などの根拠にもなっている。
寿昌院は寛保元年(1741年)65歳で亡くなった。その墓塔は、百草園に近接する七生丘陵散策路の傍らにある慈岳山松連寺関連墓地にひっそりと佇んでいる。 令和4年3月」
これで「百草園」に関する歴史が大まかに分かりました。次回に続きます。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)