11時間の 大井川鐵道「長距離鈍行列車ツアー」に完乗した。

大井川鐵道は実に不思議な鉄道会社だ。鉄道という巨大な装置産業を担い地元住民に大切な交通手段を提供しながらもそれだけでは成り立ち難い経営をSL動態保存、観光列車運行をメインに据えて全国の鉄道ファンに訴える企画を繰り出して乗り切っている。

例えば自動車は基本的にはただの実用品である。人や物を運ぶ。しかし人類はそれをある種の玩具にもしてしまった。美しさやスピード、旋回性能などを追求したスポーツカーというカテゴリーを作ったのである。このカテゴリーの車は決して実用的では無い。数千万円もするようなスポーツカーですら、自分の脱いだ上着やカバンを助手席以外には置けないクルマだったりするのだ。

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しかし鉄道は巨大な装置産業であって個人が私有して遊ぶという類のものではない。鉄道の好きな人々は写真を撮り、路線を乗りつぶし、走行音などを録音する。またある人は精巧な鉄道模型で自分だけの鉄道世界を作り上げる。

ところが大井川鐵道はその実用性(沿線の移動手段)を維持したまま、人類特有の「玩具」的な遊びの魅力をも併せ持つ鉄道なのである。

日本には存在しなかったこの「全く新しい鉄道」がどうやって生み出されたのか、それを知る参考書に今回は高瀬文人氏の著作『鉄道技術者白井昭 パノラマカーから大井川鐵道SL保存へ』(平凡社/2012年)を読んだ。

白井昭

予めお断りしておきたいのは、この記事は書評では無いということである。あくまでも、この著作から得られた知識を整理して大井川鐵道を変えたキーマン白井昭氏の事跡を記したものである。この場を借りてこの労作をものした著者の高瀬氏に参照させていただいた御礼を申しあげたい。

さて、この新しい鉄道世界を切り開いたパイオニア白井昭氏は昭和2年(1927)岡崎市で生まれた。鉄道少年だった白井氏は戦後、大学を出た技術者として名鉄(名古屋鉄道)に入社する。

白井氏は名鉄で素晴らしい経営者と出会う。名鉄を一地方の鉄道会社から多角的・全国的な事業展開を行う複合企業体に変貌させた経営者土川元夫氏である。

この出会いこそが、白井氏が強く抱いていた「鉄道を楽しむというコンセプト」をパノラマカー(7000形)という車両に結実させた。白井氏は画期的なパノラマカーを完成させた後、東京オリンピックに合わせて作られた羽田空港と山手線を結ぶモノレールの車両を設計。そして土川社長に白井氏自らが直訴して実現した小型蒸気機関車12号の保存を含む明治村のオープンを迎えたのが昭和40年(1965)。昭和42年(1967)白井氏は企画課長から運転課長になり、昭和44年(1969)いよいよ大井川鐵道再建に送り込まれる。

昭和45年(1970)岐阜大垣貨物専業私鉄西濃鉄道が明治25年(1892)に製造された「B6」2109号を廃車するという。これを白井氏は大井川鐵道で引き取り動態保存した。氏のアタマの中には既にSLを新しい観光資源にするというアイデアがあった。

大井川鐵道には蒸気機関車動態保存の意志があるらしいという噂が興り全国から不要になったSLが集まってきた。

新潟直江津の工場で使われていたドイツ・コッペル社製1275号、島根一畑電鐵の「いずも号」もコッペル社製、クラウス15、17号など小型機関車が集まってきたのである。

その背景には、国鉄が昭和51年(1976)までに蒸気機関車を全て廃止するという「動力近代化計画=無煙化」を強く押し進めていたという事情があった。そのために70年代には消えていくSLを惜しむ全国的なブームが起こっていたのだ。

鉄道を手段から目的へ。言い換えれば移動手段である鉄道から、その鉄道に乗ること自体が目的である鉄道に変えようと白井氏は考えたのだ。その中心が全国から姿を消してゆく蒸気機関車を大井川鐵道で走らせることだったのである。

大井川鐵道をSLの動態保存をする保存鉄道にする。白井氏の方針は固まった。しかし 集まってきた小型蒸気機関車では客車を牽いて本線運転を行うだけのパワーがない。ちょうど国鉄で廃車となった蒸気機関車の良い出物があった。

しかし当時の国鉄は「SL廃止が進歩であり善である」という立場から廃車となったSLを私鉄へ譲渡することを拒否していた。廃車にしたSLを整備して走らせるなど、歴史に逆行する行いであるとして全面的に否定したのだ。

そこで白井氏は苦肉の策を講じる。 程度の良い「出物」であった国鉄中央線木曽福島機関区のC12164を地方自治体である川根町に申請して引き取ってもらったのだ。その車両は大井川鐵道千頭駅構内に持ち込まれ屋根を作って静態保存の体裁が採られた。

しかし大井川鐵道には電化された昭和24年以前にC12を実際に整備し運転していたスタッフが残っていた。つまりそのまま動態保存ができたのである。

当時の運輸省にはSLの動態保存は歴史に逆行するとして反対する官僚もいたらしい。

しかし国鉄も態度を軟化させる。北海道釧路機関区標茶支所にあった程度の良いC11227を簿価の500万円で大井川鐵道に譲ってくれたのだ。

この蒸気機関車は今も元気に走っている。平成26年(2014)以降、夏になると子供達の熱い視線を集める「きかんしゃトーマス」に変身して活躍しているのが正にこのC11227である。

昭和51年(1976)7月9日11時41分、記念すべきSL急行の第一弾、「かわね路号」がC11227の牽く3両の客車とともに金谷駅のホームを出発した。蒸気機関車が姿を消した日本で最初のSL動態保存・観光列車運行の開始だった。

奇しくも国鉄の動力近代化計画によって昭和30年(1955)には4897両あった蒸気機関車が前年(1975)には15両にまでなっていた。この年(1976)には国鉄の蒸気機関車は事実上姿を消していたのである。

定期列車として蒸気機関車を運転するためには燃料(石炭)や修繕の部品が欠かせない。しかし日本は近代化を進める過程でそれらのものを不要として捨ててきた。その過程こそが大井川鐵道SL運転の価値なのである。もちろん、燃料や補修部品を定常的に備えていることがSL動態保存・定期運行の要であり白井氏が徹底的に拘ったことだった。

SLを廃止した当の国鉄も山口線で「SLやまぐち号」の運転を昭和54年(1979)に開始した。大井川鐵道白井氏たちの努力が全国的なSL運転ブームへと結びついていったのである。

さらに1970年代後半になると国鉄はローカル線にディーゼルカーの導入を進めた。それによって大量の古い客車が剰ったのである。大井川鐵道では程度の良い客車をまるでコレクターの様に蒐集した。この客車が今回筆者の参加した「長距離鈍行列車ツアー」にも重要な役割を果たしていた。古い客車を実際に走らせる形で保有しているのは大井川鐵道だけである。

その後、タイに渡っていたC56形機関車C5644号機を再度日本に戻したり、静態保存されていた機関車を整備して走らせることも行った。三重県のドライブインに置かれていたC11312もこうして再び線路を走り始めた。岩手県宮古からはC10形唯一の生き残りC108号もやってきた

白井氏は蒸気機関車だけでなく関連設備を含めた「産業遺産博物館」へと大井川鐵道を導いていった。文化の総体としてSLを保存するという取り組みであった。

さらに長島ダムの着工により井川線水没区間の付け替えも具体的なプランに上がってきた。この線を 白井氏はアプト式で敷設しようと考えた。

昭和62年(1987) 白井氏 は大井川鐵道技師長・副社長に就任。スイスのブリエンツ・ロートホルン鉄道とは昭和53年(1978)に姉妹鉄道になっていた。そして交換で訪れた現地でふれたそのアプト式に 白井氏たちは魅了されていたのである。

日本で唯一のアプト式鉄道は信越本線横川ー軽井沢間だが昭和38年(1963)には通常の車輪の摩擦力で走る新線に切り換えられ既に廃止されていた。

平成2年(1990)10月、新しい大井川鐵道井川線が「南アルプスあぷとライン」として運行を始めた。アプトいちしろー長島ダム間が直流1500Vで電化された日本で唯一のアプト式鉄道である。 白井氏は観光目的であるこの線の車窓景色の魅力を高めるために新たに付け替えられた線ではトンネルを減らし橋梁を増やした。

それから20年が経った。

白井氏は平成15年(2003)に大井川鐵道を退職。

しかし今も(この本が書かれた平成23年当時)新金谷で月曜日から金曜日までを過ごし愛知の自宅には週末だけ帰るという。自分が手がけてきたSL動態保存を、見守り続けているのだ。今現在は補修によって延命しているSLたちだが、いずれは物質的物理的限界に達して壊れてしまう時期が間違いなく来る。

その時に、例えば蒸気機関車の命であるボイラーを新造して交換できるのか。今なら設備も技術も残存しているが、先になったら判らない。しかもそのコストがいったい何億円になるのか見当もつかない・・・これが白井氏の深い悩みである。

産業遺産とは「もはや使われなくなった技術」のことでもあるのだ。

大井川鐵道には他にも様々な課題がある。まずは沿線住民の高齢化、路線バスの廃止による駅前商圏の消滅、自治体によるコミュニティー・バスの低廉な運賃での運行 など沿線利用客の減少傾向が底流にある。また道路整備によって大型観光バスが大井川鐵道本線沿線に観光客を運べる様になったこと(大井川鐵道を使う乗客は往復があたり前だったが最近は途中駅で観光バスが迎えるツアーが増えた)で肝心のSL急行の乗客も往復してくれないケースが増えている。

しかし良いニュースもある。平成23年(2011)島田市が観光資源の軸に大井川鐵道を置き島田市を「鉄道の町」と位置づけたのだ。その事業として新金谷駅に新しい転車台が作られた。これは今回筆者も見てきた。この転車台によってSL急行の先頭蒸気機関車は常に前を向いて運行することが可能になった。

さらに、白井氏は他のエリアで存続が問われている鉄道、
・近鉄北勢線:軌間762mmの軽便鉄道という特殊な形態の鉄道、平成15年(2003)三岐鉄道北勢線として新たに出発している
・京福電鉄越前本線:昭和49年(1974)勝山ー京福大野駅が廃止された。平成13年(2001)に福井ー勝山間も休止されたが平成15年(2003)えちぜん鉄道に譲渡され復活した
・三国芦原線: 同様に平成13年(2001)に福井口ー三国港間が休止されたが平成15年(2003)えちぜん鉄道に譲渡され復活した
・・・などに助言を続けてきた。

余談だが、先日新金谷駅の線路際、大好きな藤棚が美しく咲いているのを見て筆者は強い喜びを感じた。何とこの藤棚は白井氏の寄贈したものだったのである。

昭和2年(1927)生まれの白井氏は来年は90歳。こんな凄い人物が「全く新しい鉄道の姿に大井川鐵道を変えてきた歴史」を知ってとても感動している。同時に、白井氏の鉄道への愛情の深さに深く感動したのである。

そして鉄道を愛する人間として自分も鉄道のためにできることを少しでもしてゆきたいと思った。

今回参考にした高瀬文人氏の『鉄道技術者白井昭 パノラマカーから大井川鐵道SL保存へ』(平凡社/2012年)を是非鉄道を愛する全ての人にお奨めしたい。素晴らしい本である。

(写真・記事/住田至朗)