【鉄の本棚 04】『鉄道地図 残念な歴史』所澤秀樹著 ちくま文庫/2012年1月発行 その1

2016.07.12

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所澤秀樹氏の『鉄道地図 残念な歴史』(ちくま文庫/2012年1月発行)を読んだ。実はこの本は日本鉄道史を概略的に捉えるのに素晴らしい参考書である。以下、レジュメ的に項目を書き出してみた。

明治以降の日本近代化のスピードは世界史上の驚異である。

維新政府は近代化の原動力が鉄道であり、鉄道こそが封建的割拠思想を排除し国家の統一を促進する道具という認識であった。

しかし明治政府には資金が無かった。

明治政府は廃藩置県によって幕末の各藩が抱えていた2400万両の借財を肩代わりしたのだ。1両が約20万円としても現在の感覚で4兆8千億円の借金である。これ以外にも版籍奉還で元の藩主に旧領地石高の10%を支給すると約束していた。言い換えれば国内生産の10%が自動的に国家予算から無くなってゆく。

1872年(明治5年)10月14日、日本で最初の鉄道「東京(新橋)~横浜間」が開通。これは維新政府の官設官営。

工部省鉄道寮、鉄道頭(てつどうのかみ)は幕末藩主の命でイギリスに密航、ロンドン大学で土木・鉱山などを学んだ長州藩士井上勝。井上は鉄道の官設官営を強く主張した。

一方、大蔵省は官設官営主義に反対。理由は単純に財政逼迫。

1874年(明治7年)大阪~神戸間鉄道が官設官営で開通。

1877年(明治10年)官制改正で工部省鉄道寮は工部省鉄道局に、初代鉄道局長は井上勝。

しかしこの後官設官営鉄道は遅々として敷設が進まない。国内の内乱に維新政府の出費が嵩んだのである。

1874年(明治7年)佐賀の乱
1876年(明治9年)神風連の乱 秋月の乱 萩の乱
1877年(明治10年)西南戦争

そこで民間の鉄道建設が機会を得た。そのバックには官設官営では資金難で進捗しないと考えた政府高官岩倉具視がいた。

1881年(明治14年)日本鉄道会社設立。東京~高崎間を政府に代わって建設する運びになった。

しかしその実態は官設官営に近いものだった。測量:工部省鉄道局、土地買収:政府の地方官、工事:工部省鉄道局、会計のみが日本鉄道だった。

1884年(明治17年)上野~前橋間全通
1885年(明治18年)官鉄線との連絡線 品川~赤羽間 開業

しかし、列車の運行、車両検修、保線などの主要業務は工部省鉄道局に委託された。

引き続き東京~青森間鉄道建設に着手した。

1885年(明治18年)7月 大宮~宇都宮間開業
1886年(明治19年)黒磯まで延伸
1887年(明治20年)塩竃まで延伸
1891年(明治24年)靑森まで全通
1892年(明治25年)それまでの工部省鉄道局に委託の主要業務を自社直営化

東京馬車鉄道は1880年(明治13年)に設立された。日本鉄道に先立ちこちらが日本の私鉄第一号。当初は馬が牽く馬車鉄道だったが1903年(明治36年)に東京電車鉄道と社名を改め路面電車に切り替えられた。この時の軌間1372mmが馬車軌間と呼ばれる所以である。現在も都電荒川線、東急世田谷線そして京王電鉄(井の頭線を除く)が馬車軌間である。

阪堺鉄道は1884年(明治17年)設立。1885年(明治18年)廃線になった釜石鉱山鉄道の資材を流用して難波~大和川間開業。1888年(明治21年)堺市吾妻橋まで延伸。1898年(明治31年)には南海鉄道として和歌山まで延伸した。

※太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)合併され近畿日本鉄道となったが1947年(昭和22年)高野山鉄道が改称した南海電鉄に旧南海鉄道の路線が譲渡され現在の南海電鉄に至っている。

1886年(明治19年)九州鉄道設立。その後1887年(明治20年)にかけて松山鉄道 水戸鉄道 両毛鉄道 甲武鉄道 大阪鉄道 関西鉄道 山陽鉄道などの設立が続いた。

一方で鉄道の国有化を目指す勢力は1892年(明治25年)に「鉄道敷設法」を成立させ鉄道線路の建設を法定手続きにした。これにより政府の鉄道建設構想が示され建築予定線が具体的に明示されることで鉄道政策における政府の強い主導権が確立された。ほぼ同じ内容を北海道という国家戦略(石炭生産/開拓食糧増産)の地に適用した「北海道鉄道敷設法」も1896年(明治29年)に制定された。

1904年(明治37年)日露戦争。この時軍事物資輸送において国有鉄道と私鉄のネットワークの分断が著しい不効率を露呈した。また戦後の経済発展に対して統一的な鉄道ネットワークによる戦略的な輸出製品の輸送などが急務となっていた。

1906年(明治39年)3月に「鉄道国有法」が公布され私鉄17社が政府に買収された。
営業キロで約4500キロが国鉄に編入され日本の鉄道網の90%以上が国有鉄道になった。

それに合わせ国有鉄道の運営母体も「逓信省鉄道作業局」~「帝国鉄道庁」(明治40年4月)~「鉄道院(内閣直属)」(明治41年12月)~「鉄道省」(大正9年5月)~「運輸通信省鉄道総局」(昭和18年11月)~「運輸省鉄道総局」(昭和10年5月)と変化した。

鉄道の国有化で長距離直通列車が可能になり貨車などの配車が効率的に行える様になった。

この時点で路線名が正式に定められた。1909年(明治42年)鉄道院が「国有鉄道線路名称」を制定したのである。この制定により本線・支線の関係も確立された。

1900年(明治33年)公布の「私設鉄道法」は日本鉄道、山陽鉄道などの長大な私鉄を想定して作られており地方で短距離の私鉄を開業するには障碍になっていた。 

そこで1910年(明治43年)「軽便鉄道法」が公布。さらに翌年「軽便鉄道補助法」を公布して地方交通としての私鉄が奨励された。

更に帝国議会で承認された「軽便線建設費総額」から政府の決定だけで国有鉄道自身が鉄道を敷設できる「国鉄軽便線制度」まで用意された。この制度に国会議員たちが飛びつき地元への利益誘導「我田引鉄」が盛んになった。

また軽便鉄道法は従来の鉄道会社を軽便鉄道に変更することが認められていた。煩雑な「私設鉄道法」での鉄道経営からイージーな「軽便鉄道」に変更する会社が相次ぎ、1918年(大正7年)には「私設鉄道法」の適用を受ける私鉄が皆無になった。

そこで1919年(大正8年)「私設鉄道法」に換わる「地方鉄道法」が公布され「私設鉄道法」「軽便鉄道法」は廃止された。

政府の補助が約束されていた「軽便鉄道補助法」は「地方鉄道補助法」として増額された上で継承された。

1921年(大正10年)、約30年前に制定された「鉄道敷設法」「北海道鉄道敷設法」は建設予定線のほとんどを完成したので新たに改正「鉄道敷設法」が制定される。

この法律こそ、後の国鉄の解体へと結びつく総延長1万8千キロにもおよぶ建設予定線149路線(その大半が経済効果の期待できないローカル線)の建設を進める元凶となったのである。

この法律制定の背景に、農村を支持基盤とし帝国議会で多数派だった原敬率いる政友会の、地方票獲得に直結する新線建設による鉄道網拡大の主張があった。

この時点では既に改正前の「鉄道敷設法」「北海道鉄道敷設法」で重要な幹線のほとんどが完成していた。

しかしその幹線が世界的に見れば軽便鉄道なみの狭軌(1、067mm)で敷設されておりインフラも貧弱であった。

これを標準軌(1、435mm)に替え、輸送力増強とスピードアップを主張する「改主建従」(改軌を主にし地方路線建設を従とする)派に対して 原敬率いる政友会の様な「建主改従」派が勝利したのだった。

しかし一旦法律として制定された149路線は、52路線が追加されたが、削除された路線はゼロという奇矯な状態のまま昭和62年(1987年)まで法律として生き残る。

そして「簡易線建設規定」という軽便鉄道以下の規格で延々とローカル線が作られたのだ。これでは道路が整備されクルマ社会になったら全く太刀打ちできないのも当然である。

社会構造が変化して不要になった予定線も作られ続けるという異常な事態が1987年まで続いた。

公社という組織の仕組みからこれら全てを借金で維持拡張していかなければならなかった国鉄が経営破綻に瀕したのも無理は無い。

ここにはさらに1964年(昭和39年)に発足した鉄建公団(日本鉄道建設公団)の問題があった。運輸省の鉄道建設審議会の諮問に基づき運輸大臣が指示する基本計画に従って工事が粛々と進められた。 

国鉄が1968年(昭和43年)「赤字83線」を始末しようとした時にも、廃止対象路線のさらなる延長線を鉄建公団が法律に基づいて営々と作り続けていたのであった。これでは不採算路線の廃止はできない。

開業時点で乗降客はほとんどいなかったにも係わらず北海道で白糠線上茶路~北進間7.9kmは1972年(昭和47年)に延伸開業した。そしてたった11年で廃止されてしまう。

日本国有鉄道清算事業団を引き継いだ鉄建公団には国鉄長期債務は引き継がれず国の一般会計に組み込まれ60年間かかって我々国民が負担して処理されている。

ここから私鉄の再編成、国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)に続いていくが長くなるので次回。

どうですか? 簡単すぎるけれど日本の鉄道史の概略が何となく分かってきませんか?


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