【鉄の本棚 05】『鉄道地図 残念な歴史』所澤秀樹著 ちくま文庫/2012年1月発行 その2
1919年(大正8年)「私設鉄道法」に換わる「地方鉄道法」が公布され「私設鉄道法」「軽便鉄道法」は廃止された。
大正末期から昭和初期にかけて多くの私鉄が開業した。
しかし1929年(昭和4年)のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する昭和恐慌で私鉄の多くが経営不振に陥る。
国有鉄道は1921年(大正10年)の改正「鉄道敷設法」で地方路線を営々と敷設せざるを得ない。そこで改正「鉄道敷設法」の予定線に重複する私鉄をどんどん国有化していった。
1940年(昭和15年)には後の新幹線に結びつく「弾丸列車計画」が帝国議会で承認。すぐに測量、用地買収が開始され、新丹那トンネル、日本坂トンネル、新東山トンネルが着工された。
ここからの「夢物語」も世に知られる。対馬海峡と朝鮮海峡に海底トンネルを掘って東京から朝鮮の京城(現・ソウル)を経由して満州国の新京、支那の天津、北京まで直通列車を走らせる、とか。
確かに1942年(昭和17年)には関門海峡を渡る海底トンネルが開通し、国有鉄道もシールド工法など最新のトンネル掘削技術に自信をもっていたのだろう。しかしシンガポールまでの直通列車というのはいささか誇大妄想だ。
「弾丸列車計画」自体は1943年(昭和18年)太平洋戦争の戦局悪化で中止された。
ただし日本坂トンネル、新東山トンネルの工事は続けられ完成後は東海道本線に転用された。
その後1964年(昭和39年)に開業した東海道新幹線が着工から僅か5年半で完成したのはこの「弾丸列車」の時に測量と用地買収が行われていたからである。
1944年(昭和19年)敗戦半年前の私鉄路線図を見ると今とかなり違っている。
東京急行鉄道は現在の東急路線に加えて京王電鉄、小田急電鉄、京浜急行の路線が含まれている。京阪神急行電鉄も現在の阪急電鉄と京阪電鉄を合わせたものだ。今なお日本最大の路線網を持つ近畿日本鉄道も現在の南海電鉄、阪堺電鉄の路線の多くが含まれている。
明治30年代に路面電車の電気鉄道ブームが起こった。それが明治後期には郊外や都市間連絡の分野に電車が進出し始めた。
日露戦争後、日本は工業化が進展し経済成長が著しかった。さらに1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦は日本に凄まじい経済成長をもたらした。
それにより大都市への人口集中が激化し、都市中心部はビジネス地域に再編成され就労者の多くがそこに通う通勤が常態となっていく。郊外に住宅が作られ大都市と郊外を結ぶ交通機関の通勤運輸が最重要任務となり高頻度・高速・大量輸送という条件を高度に満たした鉄道が京浜・京阪神エリアを中心に大発展した。
同時に大都市周辺住民へのレクリエーション提供も鉄道の役割になってゆく。東武鉄道の日光・鬼怒川地域開発など私鉄による観光開発が盛んになった。
この大都市圏私鉄の発展がライバルや中小私鉄を吸収合併し巨大化する私鉄コンツェルンを生み出す。東の東急グループと西の近畿日本鉄道だ。
一方でこの「乗っ取り」の追い風になったのが1938年(昭和13年)に公布された「陸上交通事業調整法」であった。この法律はかつて初代鉄道局長井上勝が私鉄批判をした内容そのままなのだが
・交通機関乱立と相互自由競争が公衆の利用増進を妨げ、企業の経営を圧迫する
・・・という点から鉄道・バス事業の統合を法制化したのであった。この法律は戦争遂行の道具であったと解説されることもあるが実際は戦後も存在しており戦時立法でないことが分かる。
この法律により1940年(昭和15年)東京市を調整区域とし軌道(路面電車)バス事業を東京市に統合(後の都電・都バス)。地下鉄は新たな特殊法人を設立し運営建設に当たるとし翌1941年(昭和16年)「帝都高速度交通営団法」が制定され営団地下鉄が作られた。
これにより
・中央線以南ブロック
京浜電鉄、湘南電鉄、東京横浜電鉄、相模鉄道、神中鉄道、小田原急行鉄道、帝都電鉄、京王電気軌道が東急に一元化された。
・中央本線と東北本線の間のブロック
東武鉄道(東上線)、武蔵野鉄道、多摩湖鉄道、旧西武鉄道が西武鉄道に統合された。
これ以上に強引だったのが1943~44年(昭和18~19年)に政府によって行われた戦時買収だった。この期間に私鉄22社1051.4kmが国有化された。
「軍事上の必要、特殊港湾地域の国有化が適当なもの、幹線交通網整備上必須のもの」が一切の論争も無く「戦争目的完遂」という理由で国のものになったのである。
しかしこの買収された路線が戦後国鉄の経営を圧迫することにもなった。
1945年(昭和20年)8月、敗戦によって戦前の体制が大きく変わった。鉄道は戦前・戦中の統合の時代から分散・解体の歴史が始まる。
特に大都市圏の私鉄は合理的な理由が無い統合だったので自然に分離解体が進んだ。
近畿日本鉄道に合併されず残っていた高野山電気鉄道(現・南海電鉄高野線/高野下~極楽橋と高野山までのケーブルカーを運営していた)を南海電気鉄道に改称し、それが旧南海鉄道の路線・社員を譲り受ける形で1947年(昭和22年)に南海電鉄が新たに誕生した。
1948年(昭和23年)には東急電鉄から、京浜急行電鉄、小田急電鉄、京王帝都電鉄が分離独立した。この背景には強引な乗っ取りを行った五島慶太会長が東條英機内閣の閣僚だったためにGHQから公職追放処分になっていたということもあった。
この分離独立の際に元小田急電鉄の持っていた帝都線が井の頭線として京王帝都電鉄の所属になった。その見返りに箱根登山鉄道と江ノ島電気鉄道が小田急傘下となった。
この分割劇により大手私鉄14社体制が確立された。その14社は
①京成電鉄
②東武電鉄
③西武鉄道
④京王帝都電鉄(現・京王電鉄)
⑤小田急電鉄
⑥東京急行電鉄
⑦京浜急行電鉄
⑧名古屋鉄道
⑨近畿日本鉄道
⑩南海電気鉄道
⑪京阪電気鉄道
⑫京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)
⑬阪神電気鉄道
⑭西日本鉄道
※現在は相模鉄道を加えた大手私鉄15社体制
一方政府直営だった国鉄もGHQの意向で「国家の鉄道」から「国民の鉄道」への転換が図られた。具体的には政府機関から公共企業体(公社)へと変わったのである。
1948年(昭和23年)「日本国有鉄道法」が公布され、運輸省鉄道総局は運輸省から分離され翌1949年(昭和24年)「日本国有鉄道」が発足した。
しかし実際に発足した「日本国有鉄道」はGHQの思惑と異なり、財政・業務面で政府の強い監督・規制を受ける、当事者能力を著しく制限された組織体だった。官僚・政治家が既得権益を守ることに成功したのだ。
日本国有鉄道は不採算路線建設など政治のしがらみに左右される体質も温存された。その上、公共性と採算性の両立という大義名分が国鉄の首を絞める。国家的要請での過大な設備投資を強制されながら一方で資金の独自調達を要求されたのだ。
一方地方に残存した中小私鉄が相次いで破綻してゆく。潤沢な補助金のあった「地方鉄道補助法」が廃止され新たに制定された「地方鉄道軌道整備法」では微々たる補助金しか出なかったのだ。その上道路交通が発達し、農地改革による地域の商人・地主層の経済的衰退も重なった。
1980年(昭和55年)12月「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」が公布、即日施行された。「国鉄再建法」である。
その原因は当時の日本国有鉄道の末期的な借金経営があった。
東海道新幹線建設、電化・複線化など設備近代化、満州引揚者受け入れの人件費増大などから1964年(昭和39年)に国鉄は初めて300億円の単年度赤字を計上した。しかし、ここから借金が雪だるま式に増えてゆく。
長期債務残高が、昭和45年度末2兆6037億円、50年度末6兆7793億円、55年度末14兆3992億円と正に天文学的数字になっていった。
単年度収支(純損益)も悪化を続け1975(昭和50)年度9147億円、1980(昭55)年度には1兆84億円もの赤字を計上する。
「国鉄再建法」以前にも国鉄経営の再建を図る法律や改善計画はあったがいずれも設備投資に重点を置き、輸送量の増加で収入を増やそうとしたものだった。国鉄の国内輸送分担率が下がり続けているという時流を全く認識していなかったとしか言い様がない。もちろんことごとく失敗した。
そこで「国鉄再建法」は”減量化”に重点を置いた。
それまでも1968年(昭和43年)に国鉄諮問委員会から83路線2590.6km(いわゆる「赤字83路線」)は既に鉄道の使命を終えているので即刻廃止すべきとの意見書が出された。国鉄自身もこれを重く見て廃止に取り組んだが、地元の抵抗や改正「鉄道敷設法」の下、鉄建公団が廃止すべきとされた路線の延伸工事を「新線」として営々と行っていたことなどが原因で13線区129.3km(「赤字83線」以外の2線区を含む)が廃止されたに過ぎない。
実際にこの時に廃止された129.3kmよりも同じ時期に鉄建公団によって作られたローカル新線のキロ数の方が上回っていたというのだから全くお話しにならない。
※この鉄建公団の病理については別に参考書を読んでいるので機会があったら紹介したい。
「国鉄再建法」ではこの反省から赤字ローカル線の廃止に一種の強行性を持って臨むことになった。
1970年(昭和45年)から国鉄は営業線を「幹線系線区」と「地方交通線(ローカル線)」に分けて区分経理を発表するようになった。「地方交通線」の赤字は国鉄全体の赤字の3分の1とはじきだされた。
この「運営の改善のための適切な措置を講じたとしてもなお収支の均衡を確保することが困難」な「地方交通線」のなかでも特にバス転換が適当と当時の運輸大臣が承認する線区を「特定地方交通線」と名付けるところから大掃除が始まった。
翌1981年(昭和56年)の「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法施行令」(「国鉄再建法施行令」)で更に具体的に輸送密度(1日1km当たりの輸送人員)8000人未満の線区が「地方交通線」、4000人未満が「特定地方交通線」とされた。
これに基づき国鉄は営業線のうち175線1万160.3kmを「地方交通線」に選定し運輸大臣に承認された。そして1984年(昭和59年)の運賃改定でこれらの「地方交通線」は幹線よりも1割高い運賃が適用された。全国一律だった国鉄運賃体系が初めて崩されたのである。
そしていよいよ「特定地方交通線」の廃止に着手する。その際に「国鉄再建法」では次の手筈が用意されていた。
1 対象の線区ごとに対策協議会を開き、代替輸送を含め地元自治体と話し合う
2 地元が廃止に同意した場合、1km当たり3000万円の転換交付金を国が自治体に支払う(・・って税金、国民の負担ですけど)
3 代替輸送として自治体などが第三セクター方式で鉄道を存続させる場合は線路の無償貸付などの優遇措置を講じる
4 協議開始後2年を経過しても地元が廃止に同意しない場合、国鉄は独自に廃止の申請ができる
つまり、一旦「特定地方交通線」に指定されたら廃止されるしかないということが明らかになった。
ここで「特定地方交通線」選定は3段階に分けて行われた。
1983年(昭和58年)までの廃止を目標とする「第一次特定地方交通線」
輸送密度2000人未満 営業キロ30km以下 両端が他の国鉄線に接続している線と石炭を相当量輸送している線を除く。あるいは輸送密度500人未満、営業キロ50km以下の線。
「第二次特定地方交通線」は「第一次特定地方交通線」を除く輸送密度2000人未満の線
「第三次特定地方交通線」は輸送密度2000人以上4000人未満の線からバス転換不適当路線を除く線
ただし次の項目に該当する線区は選定から除外される旨が政令の特例に示された
①ピーク時1時間当たり片道1000人以上の輸送密度区間がある 適用例:飯山線
②代替輸送道路が未整備 適用例:岩泉線 名松線 木次線 三江線 予土線
③積雪のため代替輸送道路が年間10日以上閉鎖 適用例:只見線
④乗客1人当たりの平均乗車キロが30km以上でかつ輸送密度1000人以上 適用例:釧網線 日高本線 留萌本線 大湊線 気仙沼線
結果的に「特定地方交通線」83線(1968年の「赤字83線」とは異なる)のうち22線が北海道、それも羽幌線(留萌〜幌延141.1km)、池北線(池田〜北見140.0km)、天北線(音威子府〜南稚内148.9km)、名寄本線(名寄〜遠軽138.1km/支線中涌別〜涌別4.9km)、標津線(根室標津〜標茶69.4km/中標津〜厚床47.5km/計116.9km)といった長大な路線が廃止された。
また「国鉄再建法」は無条件で鉄建公団が建設中のローカル新線の工事を凍結したが、地元が第三セクターで運営するとなれば工事は再開され設備が無償で貸与されるなどの優遇措置もとられた。
「国鉄再建法」と同じ1980年(昭和55年)「臨時行政調査会設置法」が公布され「第二次臨時行政調査会」が発足。ここに国鉄分割民営化への途が開かれた。既に書いた様に1980年(昭和55年)の国鉄の単年度収支は1兆84億円という凄まじい赤字、長期債務残高が、昭和55年度末14兆3992億円である。同年の国家予算が40兆円程度だったのだから想像を絶する。
1982年(昭和57年)臨調は「行政改革に関する第三次答申(基本答申)」で「国鉄は5年以内に速やかに分割し、北海道、四国、九州を独立させ、本州は4ブロック程度に分けて民間会社に移行するのが適当」と示された。
その結果、1985年(昭和60年)「国鉄改革関連法案」は10月衆議院国鉄改革特別委員会で採択され衆議院本会議でも可決、参議院本会議でも可決され国鉄の業務は1987年(昭和62年)4月から新会社に引き継がれることが決定した。
ここから具体的な国鉄分割民営化が始まるのだが、予想したよりも長くなってしまったのでその重要部分は「その3」に続くことにする。
今回は駆け足で大正から戦後の国鉄分割民営化までの歴史を概観した。あくまでも概観なので詳細は省いている。詳しく知りたい方には最後に参考書リストを付けるので参考にしていただきたい。
日本の鉄道が戦前と戦後で意外な繫がりを保っていることも分かった。しかし急ぎ足とはいえ文章が長くなってすみません。