抽象的過ぎるかな【鉄道趣味の周辺】その4
『騎士団長殺し』のテーマは何なのか定かではありませんが、いずれにしても村上春樹さんが常に描くのは世界の危うさ=不安定さを「救うこと」だと思います。別の言い方をすれば「崩壊と修復」のプロセスです。
極端ですが、全てのムラカミ作品が短編”かえるくん、東京を救う”の変奏曲なのです。というか、私はいつもそう思いながら作品を楽しんでいます。
だから主人公や登場人物は「かえるくん」的に抽象的ですし、起きる出来事も荒唐無稽であって構わないのです。『海辺のカフカ』がその辺りを典型的に描いていました。暫定的に世界を侵すものとして「悪のようなもの」が登場しますが、主人公の少年とは微妙に隔絶されています。
言い換えれば「世界の不安定、崩壊と修復」はドラマチックに日常的に「他所」で起きていることなのです。特にムラカミさんの短編では「他所であること」のスケッチが作品になっているものがあります。「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」なんて典型ですよね。
「崩壊と修復」に当事者として立ち会う主人公と、このカフカ少年の様に「世界の終わり」側から並走する場合があるのです。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』はそれを典型的に描いた作品でした。
『騎士団長殺し』では、老画家が若い頃市新気鋭の洋画家としてヨーロッパ、パリではなくウィーンに留学し、おそらくナチス絡みの政治的事件に巻き込まれ日本に送還されます。戦中は沈黙を守り、戦後に新進の日本画家に変身して世間的な評価を得て大家ととなります。
洋画から日本画への転向とウィーンでの謎の体験を巡って主人公は『騎士団長殺し』という発表されず屋根裏に秘匿された傑作画を見ながら考えます。
ストーリーを追うのは止めます。あらすじに意味はないのです。
実際に読むと、細部にムラカミさんが仕掛けた様々なギミックに笑えます。というかムラカミ作品の楽しみはこの凝ったギミックにもあると思います。
『騎士団長殺し』の主人公は、微妙に当事者として「崩壊と修復」らしきものを体験します。しかし「かえるくん」的な当事者ではないのです。13歳の美少女秋川まりえも自然そのものが人間の形をしているダケです。
この作品で「悪しきもの」は『騎士団長殺し』という絵の中に閉じこめられています。騎士団長の姿をしたイデアが、その「悪しきもの」との闘争を実施するのです。
つまり「抗えない様な巨大な悪によって引き起こされた悲劇の一部」が『騎士団長殺し』という画に封じ込まれているのです。しかし、それは既に完了した事象。
だから騎士団長の姿をしたイデアには「時間はあらあない」。って些か単純過ぎますかね。
主人公が老画家の病室から旅をする世界は、たぶん時間とは関係なく「悪しきもの」を常に生じさせる構造(メタファーという「世界を視る=意味を見る」方法)なのでしょう。
一瞬ダンテの神曲を想像しちゃいましたが主人公は「浄化される」のではなく謎のまま「放出され」ます。イデアの出発点だった穴の中へ。
ふりだしにもどる。
まさか免色氏が古代ローマの詩人ウェルギリウスではないでしょうし。というか、免色氏は表面的に些か過剰に健康過ぎる点が精神の不健康を際立たせていて「アルコールランプの五反田くん」を彷彿とさせます。
読了した後『騎士団長殺し』を反復して読むか自分に問うてみました。たぶん答えは「否」です。
『騎士団長殺し』は「崩壊と修復」が些か入り組み過ぎているのです。
何度も読み返す過去のムラカミ作品は、この構造が美しく単純なので読む度にスッキリと「再生」できます。何となく元気になって、屈託から解放されます。
『IQ84』も再読しないのは同じ理由。ヤナーチェクの楽曲が好きになれないというのもあるかもしれないけど。
と言うワケで『騎士団長殺し』4冊の読書感想文を書いてみましたが、まだゴールデン・ウィークは数日あります。
さて、何をしましょうか?
(写真・記事/住田至朗)