梅ヶ丘駅の新宿側は、地下に入ってゆきます。昔、地上を走っていた頃は梅ヶ丘駅の先で環状七号線を越えていたので、今日の環七は空いているなとか、渋滞してるな~」などと眺めていました。

余談ですが、子供の頃、井の頭線に乗って渋谷に向かっていると神泉駅の手前で住宅街の下にあるトンネルに入ってゆきます。今も変わってはいないと思いますが、その時、トンネル坑口のすぐ上にふつうの住宅があって、住んでいる人は毎日どんな感じなのかな、といつも思ったのです。ちょうど下り急行線の列車がトンネルから出て来ました。

小田急線も世田谷代田駅が地下化されてトンネル坑口の上にキレイな住宅があったので、ふと子供の頃の感覚を思い出しました。

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地下鉄になっている部分の前面展望は撮影できません。車内の灯りが前面ガラスに映り込んでしまうからです。駅に到着してどうにか撮りましたが、下手なので上手く写っていません。申し訳ないです。

どうにかピンが合ったのはホームの終わる部分でした。

ここからは、新宿駅からの戻りで駅を撮影したカットです。上りホーム新宿方面。世田谷代田駅はホームドアが設置されています。

上りホーム、小田原方面はトンネルの坑口が見えています。

駅名標。1927年(昭和2年)世田谷中原駅として開業しました。開業当時の駅所在地が代田村小字中原だったのです。1945年(昭和20年)終戦の直前に空襲で被災し営業休止となります。小田急では唯一空襲で焼失した駅でした。戦後すぐに1946年(昭和21年)営業再開。駅名も世田谷代田駅に改称されました。

戦時中から戦後にかけて井の頭線に車両を運ぶための代田連絡線が当駅から代田二丁目駅(現・新代田駅)まで敷設されていました。1952年(昭和27年)に撤去されたために代田連絡線の資料はほとんど残されていないそうです。東京大空襲で井の頭線の永福町検車区が被災し大半の車両が焼失してしまいましたが、井の頭線に接続する線がなく、同じ狭軌(1067mm)の小田急線との間に急遽連絡線が敷かれ、被災車両の搬出、代替車両の搬入が行われたのです。しかし戦時中に強制収用された土地の返還が求められたことなので撤去されました。世田谷代田駅が地上駅時代には上りホームの裏手に連絡線の跡地がありましたが、地下化されたことで消えました。

余談です。筆者が小学生の時に井の頭線の代田二丁目駅が新代田駅に改称されたことを覚えています。他に駅名変更で記憶に残っているのは、東京メトロ銀座線の表参道駅が筆者的には長く「神宮前駅」だったことですね。(1972年/昭和47年駅名改称)

話を世田谷代田駅に戻します。相対式ホーム2面2線+跨線橋の地上駅でしたが、2006年(平成18年)から仮設橋上駅舎になり、2013年(平成25年)には現在は乗降できない地下3階の急行線が開通、こちらに仮設ホームが設置され、現在緩行線ホームのある地下2階に改札口と駅施設が置かれました。2015年(平成27年)現在の地上駅舎が完成しました。2018年(平成30年)複々線化工事が完成、地下2階の緩行線ホームの使用が始まりました。地下3階の急行線に仮設されていたホームや階段、エレベーターは撤去されました。

地上駅の改札口。

改札口正面はまだ工事中。50mほど先を環状七号線が通っています。でも意外に騒音は聞こえません。とても静かでした。環七の手前を赤堤通りが通っています。

改札口を外から。

少し離れて駅出入口、左にコーヒー屋さんがあります。

駅舎の裏手にも行きましたが元線路のあった部分は工事中でした。駅の周囲は住宅街です。世田谷代田駅に戻りました。

地下2階とは言え、環七の下をくぐるのでカナリ深い場所にホームがあります。

世田谷代田駅も複々線化と地下化で昔の面影は全く残っていません。狐につままれた様な気分で次の下北沢駅に向かいますが、こちらも筆者が通学していた頃の姿は残っていないのです。

【駅ぶら01】小田急線44 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)