トップ画像は、北品川駅ホームから撮った「KEIKYU BLUE SKY TRAIN」第2編成の京急2100形電車。北品川駅品川駅側の踏切にさしかかるタイミング。「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」が1編成のみなのに対して「青い電車」は2編成が運行されているので比較的眼にします。

さて上の写真の踏切。南は旧東海道です。

踏切から北品川駅。上りホーム裏側の保線機器用側線がよく分かります。

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踏切の南側に旧東海道の石碑一番。この先(右)が品川宿です。

ここから旧東海道の品川宿。

少し進むと右(西)側に北品川駅の跨線橋が見えました。

品川方面には高層ビル群が見えます。踏切を通過する京急電車も見えます。

こちらは浦賀駅側の踏切。

この先、浦賀駅側は高架線になります。

旧東海道石碑三番。外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったので土蔵相模とよばれた妓楼相模の跡。映画「幕末太陽傳」でも、石原裕次郎演じる高杉晋作と小林旭演じる久坂玄瑞がこの妓楼で英国公使館焼き討ちの相談をするシーンがありますが、これは史実です。川島雄三監督らしく土蔵相模屋はかなり正確に再現(復元)されているそうです。

石碑にある歩行新宿(かちしんしゅく)とは、現北品川本通商店街から法善寺あたりまでのこと。品川宿と高輪の間が宿場と認められた際に宿場として歩行人足だけを負担したことで名付けられました。

旧東海道の西側に鎌倉時代永仁2年(1294年)創建の善福寺がありました。

本堂の瓦葺きは関東大震災でトタン屋根になった様ですが軒下に伊豆長八による鏝絵(こてえ)=漆喰彫刻が傷んでいますが残っています。伊豆長八と言えば、西伊豆松崎の長八美術館が超オススメです。

すぐに同じく旧東海道西側に明徳元年(1390年)創建の浄土宗臨海山法禅寺があります。

山門の脇に石碑がありました。明治6年(1873年)法禅寺の寺子屋が東京府の認可を受けて公立の品川小学校になったものです。品川区で最初の小学校でした。山門が煉瓦積というのは寺院建築では珍しいですね。明治以降の再建と言うコトでしょうか。

境内に品川区指定史跡「流民叢塚碑」がありました。天保の大飢饉で亡くなった人たちを祀る供養塔です。天保4年(1833年)に始まった天候不順は数年に及び、品川宿には農村などから流浪してくる難民が多く、飢餓などで891人が亡くなりました。法禅寺には、約500人が埋葬され、塚の上に明治4年(1871年)に流民叢塚碑が建立されました。現在のコンクリートの納骨堂は昭和9年(1934年)の境内整備で建てられたもので塚碑は上に移設されています。

参拝者が手を漱ぐ手水が脇にあって水漱とあります。右から読むので漱水でしょう。ついつい漱石先生を思ってしまいます。

夏目金之助漱石のペンネームの出所は、3世紀頃の中国『晋書(しんじょ)』の列伝26孫楚伝(そんそでん)に出てくる「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という言葉(元は孫楚の言い間違い)。この言葉は、孫楚が自分の言い間違いを認めず頑強に言い張ったことから「自分の失敗を認めず、屁理屈へりくつを並べて言い逃れをすること。負け惜しみの強いこと。」という意味で使われます。

旧東海道品川宿が面白くて【駅ぶら】が止まりません。このまま【駅ぶら03】京浜急行06 に雪崩れ込みます。

(写真・記事/住田至朗)

2020年3月17日0時49分 ブルースカイトレインの編成数に関する誤記載を修正いたしました。ご指摘誠にありがとうございます。(鉄道チャンネル編集部)