新しい餘部橋梁を渡ります【50代から始めた鉄道趣味】435
※2015年8月撮影
トップ画像は、米子駅に停まるJR西日本キハ126系気動車。JR西日本が山陰などでの地方都市間輸送用に2001年(平成13年)から新製しました。
鎧駅。1912年(明治45年)開業。写真は旧1番線ホームですが、2012年(平成24年)に相対式ホーム2面2線から1面1線に棒線化されレールが撤去されています。つまり使われていないホームの駅名標と待合室です。このホームから見下ろす日本海の風景がとても素晴らしいのですが。
※2015年8月撮影
鎧駅の後方展望。
※2015年8月撮影
有名な餘部橋梁を渡ります。2010年(平成22年)8月から供用が始まった新しい橋梁の後方展望。旧橋時代はトンネルから直進していましたが、新橋は旧橋を使用しながら横に並べて作られたため付け替えの際にS字カーブを描くようになったのです。2009年12月に旧橋梁を渡っていますが夜間で高さが全く実感できませんでした。
※2015年8月撮影
駅名標。1959年(昭和34年)開業。駅所在地は広島県美方郡香住区余部ですが、姫新線には既に1930年(昭和5年)開業の余部(よべ)駅があったため字を餘部に替えて駅名にしています。
※2015年8月撮影
山陰本線の旧餘部橋梁は、1912年(明治45年)に完成していますが、駅は作られませんでした。余部の住民は、山陰本線に乗るためには線路までの急坂を(ビルで言えば10階以上)登り、強風と通過列車に怯えながら高さ41m、長さ309mの鉄橋を渡りさらに4つのトンネルを抜けて約2km先の鎧駅まで歩いたのです。
余部公民館には住民たちが雪の餘部橋梁を渡る写真が残されています。余部の小学校を卒業した子供たちは香住中学校に通うために鎧駅まで歩き一つ先の香住駅までは列車で通うこの通学路しか無かったのでした。
餘部駅が開業したのは橋梁が完成してから47年後でした。しかし駅ホームまでの急坂がエレベーターによって解消されたのはこの新橋梁と新駅舎になってからなのです。
この日は夏休み中、多くの観光客が餘部駅で降りました。
※2015年8月撮影
※オリジナル写真が縦なので加工してあります
居組駅です。この駅名標がある上りホームは既に2008年(平成20年)に廃止されています。単式ホームと相対式ホームの2面3線でしたが現在は1面1線の棒状駅になっています。1911年(明治44年)開業。
※2015年8月撮影
広島県最後の駅です。陸上トンネルという変わった名前の隧道を抜けた次の東浜駅から鳥取県に入ります。開業した明治以来の木造駅舎がありました。
※2015年8月撮影
残念ながらこの木造駅舎は、2018年(平成30年)解体されてしまいました。駅舎正面を撮りたかった・・・。
※2015年8月撮影
その後鉄筋コンクリートの簡素な駅舎ができています。
12時7分鳥取駅着、4分後の「とっとりライナー米子行」に乗り継ぎました。13時34分米子駅に到着。
※2015年8月撮影
「だんだん広場」のモニュメント、夏の太陽に照らされて、う~ん、やっぱり少し奇妙です。
※2015年8月撮影
米子駅にきたら「米吾」です。実はオナカが減っていたので先に食べてから、上の写真を撮っています。(笑)
※2015年8月撮影
天玉そば(値段メモっていませんでした)とセットの鯖寿司2切(300円はメモってありました)。夏でも美味しいですよ~。
※2015年8月撮影
朝、西舞鶴駅から北近畿タンゴ鉄道で豊岡まで2時間10分。豊岡駅から米子駅まで3時間25分、ここから益田駅までアクアライナーで4時間10分です。さらに長門市まで2時間ほどかかります。長いですねぇ。
※筆者は既にコラムなどで青春18きっぷ鉄道旅の写真を度々使用しています。重複していますが、御容赦ください。
※価格、駅などは2015年当時のものです。
(写真・文/住田至朗)