12200系は「憧れの存在」にして「同期」――元・近鉄名物広報マンに聞く

「12200系」ラストランツアー時に撮影(※「あをによし」に改造された編成ではありません)

2021年11月20日、定期運行からはすでに退いていた近鉄「12200系」特急のラストランツアーが開催され、同形式はその半世紀以上にわたる長い歴史に終止符を打ちました。

ラストランツアーには、元・近鉄の名物広報マンとして知られる福原稔浩さんも乗車されました。退職後もテレビやラジオ番組、講演会、旅行ツアーなどで精力的な活動を続ける福原さん。12200系についてお話を伺ったところ、入社当時は「憧れの存在」だったと言います。

元・近鉄名物広報マンの福原さん。2022年5月現在は歴史芸術文化村の総括責任者であり、王寺町観光広報大使も務めます。

福原さんが近鉄に入社されたのは1975(昭和50)年、大阪万博から5年後のこと。12200系はすでにデビュー6年目に入っており、名阪間をノンストップで走っていました。福原さんは当時、近鉄難波駅(現在の大阪難波駅)の駅員として働いていており、折り返す12200系の整備給水などを行っていたそうです。

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「本来は車両部門の職員の仕事なんですけども、難波は折り返しですぐ出ていくので駅員がやっていたんですね。号車板を変更したり、床下の給水の弁を開いてホースで水を入れて、一定の整備が終わったらホームへ出ていく。そしたらホームにはもう名古屋へ行かれるお客さんがたくさんいらっしゃる」

「駅員を2年やって、急行や快速急行の車掌になりました。(当時)車庫に行くと12200系が停まっていた。いつかはこれに乗りたいという『憧れの存在』でした。頑張って2~3年で特急車掌になり、最初に乗った特急が12200系でした」

特急車掌から運転士になった福原さんは「12200系を運転したい」と考えていたそうですが、運転する機会はついぞ訪れませんでした。東大阪線(現在の近鉄けいはんな線)の開業運転士に選ばれたためです。福原さんはその後、駅の助役を経て広報へ。名物広報マンとして23年間にわたり活躍します。引退時期が12200系と重なったこともあり、今では「同期のような気持ち」も抱かれるそう。

「当時は列車の連結開放が多くて、車掌時代は『この駅で切り離しますよ』というのを何回も難波でやった。近鉄では乗務員と駅員さんが切り離しをする。ホームでやると、子供たちや鉄道ファンが見に来て、そういう光景も一つの名物になりました」

「東海道新幹線が大雨で止まったことがあります。当時の大阪名古屋間は通常2両のノンストップ特急で十分なんですけども、急に運転指令から連絡が入って『新大阪でお客さんがあふれている。名古屋方面へ帰れない』と。急遽2両編成に車庫から出た4両編成をつないで、さらに2両つないで8両で大阪難波駅を出発しました。こんなに大きな車両でも小回りが利く。お客さんが少ない時は2両。4両になったり10両になったりもする。(12200系は)エースではないですけども遊撃手でした」

1970年代には特別に整備され、貴賓列車にも使用された12200系。「オレンジと紺色」の伝統色をまとい、近鉄の特急網を支える代表的な車両として様々な局面で活躍を続けました。形式としては消滅しましたが、そのサービス精神や設計思想は80000系「ひのとり」などに引き継がれています。一部の編成は「あをによし」のように転用され、今なお近鉄線を走ります。

記事:一橋正浩