※2023年5月撮影

トップ画像は、新宿中央公園芝生広場の西側にある十二社(じゅうにそう)熊野神社東神門。中に拝殿が見えます。

手水舎で手と口を浄めます。

※2023年5月撮影

手水の中に弁財天のお使い「白蛇」が描かれていました。白蛇を見ると金運がアップするそうです。傍らの貧乏神が何やら狼狽(うろた)えています。(笑)

※2023年5月撮影

拝殿、神様にご挨拶します。

※2023年5月撮影

十二社熊野神社でいただいたパンフレットにあった由緒の概略です。

十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394年~1428年)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷紀州の熊野三山より十二所権現を遷し祠ったものと伝えられます。また一説では、この地域を開拓した渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいわれています。

鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走、九郎の代に現在の中野坂上から西新宿一帯に住むようになりました。九郎が、自身の産土神である熊野三山の若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといわれています。

江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も行われました。享保年間(1716~1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客が多く訪れました。

明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称しました。氏子は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守です。

拝殿脇に「大田南畝の水鉢」の案内。

※2023年5月撮影

拝殿の脇に水鉢がありました。

※2023年5月撮影

文政3年(1820)に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師として有名な大田南畝(おおたなんぽ)(別号 蜀山人/しょくさんじん)(1749年~1823年)の書による銘文が刻まれています。銘文は以下。

熊野三山

十二叢祠

洋洋神徳

監於斯池

大田覃(ふかし 太田南畝の名です)

筆者は、大田南畝(蜀山人)の名前は知っていました。しかし作品は読んだことがありません・・・。彼が江戸幕府のキャリア官僚だったとは・・・知りませんでした。

大田南畝は『甲駅新話』という洒落本で内藤新宿を書いています。(最近異説もありますが)その時の筆名「馬糞中咲菖蒲」は当時江戸で流行った「四ツ谷新宿馬糞のなかに、あやめ咲くとはしほらしや」からのもの。(笑)

水鉢の前に弁財天。手水舎の白蛇の出身地です。

※2023年5月撮影

その奥に境内末社大鳥三社。ここの狛犬が享保十二年(1727年)に角筈村上町の百姓店衆講中から奉納された「新宿区登録有形文化財です。

※2023年5月撮影

右の阿形。

※2023年5月撮影

左の吽形(うんぎょう)。

※2023年5月撮影

神社の脇から入ったのであらためて鳥居の正面から拝殿。

※2023年5月撮影

十二社通りに出て、こちらが参道入口です。

※2023年5月撮影

高校生の頃から何度も新宿中央公園には来ていますが熊野神社を参拝したのは初めてでした。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)