彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも

毎日、ニュースのリリースを多いと1000本くらい見ます。それが仕事なので否応はありません。それでも毎日ウンザリするのは、圧倒的に大量のマーケティング関連のセミナー/出版のリリースが並んでいるコトです。

大量のマーケティング関連リリースを眺めていると概ね「同じ様なテーマ」で「似た様な手法」が文章の表現法が違うダケで並んでいる印象を受けます。もちろんマーケティング自体は時代に応じて進化しています。しかし少なくとも学生時代に学んだマーケティング・メソッドから逸脱しているものはありませんし、そもそもがリーサラ時代を宣伝広告の世界で過ごしたので、その世界にどっぷり浸かった人生でした。「自分をマーケティング戦略の対象として突き放して観察する」という冷ややかな習慣は残りましたが「こりゃあ凄い!」という戦略には滅多に遭遇しません。特に地方のローカル鉄道を巡る旅をしていると「もうちょっと巧いやり方があるんじゃないですか」というものも散見します。そして毎日、大量に「マーケティングを会得するための宣伝」を観ていると何だか茫漠とした気分に陥ります。

マーケティングとはひじょうに狭く考えれば「他人の欲望をこちらに向ける」方法です。

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個々人の欲望というのは「他人が欲望している」という認識から発動します。他人が無視してかえりみないモノに対して我々が欲望を抱くことは基本的にありません。

分かり易い例えで言うと、「美人」という見方は「美しいということのあり方」が擦り込まれて初めて成立するワケです。民俗、習俗、時代、地域などによって「美人」のあり方が千差万別だったのは、「美」が後天的に「構築される文化的価値」だからです。

しかし、世界をインター・ネットが覆い尽くし「極めて標準化された美(価値)」が支配する時代になると、多くの人が同時に同じモノを欲望します。世界的に同じモノが大量に売れる背景には文化的価値の標準化が有るワケです。

個性なんてモノは退屈な幻想に過ぎません。(笑)

もちろん、オフ・ブロードウェイ的な「正統的価値の反対を好む」という層が必ず一定数は存在するのでニッチ・マーケットが成立します。言い換えれば、世の中には「異性にもてる秘訣」が氾濫していますが、その反対方向、ニッチ戦略でガール(orボーイ)フレンドを作る方が遥かに効率的な場合があります。

要するに同じ様なマーケティングを行っても、所詮は競争相手と同じ事しか出来なくなるダケじゃん、と誰でも分かるので、毎日大量に流れてくる「マーケティング教室」には必ず「他とは違う”鼻のアブラ=秘訣”」があって「他所では決して学べない」という紋切り型が並んでいます。

一時代を築いた「MBA経営手法」がすっかり廃れてしまったのは、その手法が「常道」になってしまってもはや「差異」を創出できなくなったからだと言われています。

大量の「マーケティング関連お勉強情報」が日々再生産されるのは、そこに「市場があるから」という理由に尽きます。同様のことが無数の「健康法」「金儲けの方法」「異性にもてる方法」にも当てはまります。

冷静に考えれば「自分は市場に存在するターゲットのささやかな一人に過ぎない」と了解できるので、フィリップ・コトラーの『マーケティング原理』(ダイヤモンド社)でも丁寧に読んで、あとは自分の脳味噌で戦略を立てる以外に道はないのです。

つまり筆者(男子)の場合は、高校生の頃から女性誌の「恋愛情報」などを読むことが基本になっていました。

「恋愛」という幻想を扱うには、その幻想を成立させている要素を悉くプレパラートにして整理しておくことが「幻想」のクオリティーを左右するのです。『小説ジュニア』なんて最良の参考書でしたね。できれば、対位法的に三島由紀夫の人工的で巧緻な美意識をフレーバーに振りかけるのがエレガント。(笑)

もちろん自分のポジショニングとターゲットの相手に合わせた的確な女性誌の選択が必要ですけどね。ananが創刊された頃は単純で良かったなぁ・・・。(笑)

いずれにせよ、相手の戦略を知らずに戦場に出ることは、シンプルに無謀です。

で、タイトルの「マーケティングよりも”るさんちまん”じゃないっすか?」というのは、マーケティング戦略は戦略を見抜かれた瞬間に無効化するので「デキル」マーケターは「無意味に感情的な表出で戦略を韜晦する」というのが常道というコトです。過去に成功したマーケティング戦略は必ず「明後日の方向を向いていて、何が本意なのかサッパリ分からない」というスタイルを採用しています。理屈が透けて見える様な薄っぺらなマーケティングは、鬱陶しい上に無意味。

ですから、年をとることの楽しみは「世界が少しずつ分かってくること」ではなくて「世界がますます深い謎であることを感知すること」だとウィトゲンシュタインも『論理哲学論考』に書いていますよ。(笑)

“La mariée mise à nu par ses célibataires, même”1915〜1923