現在は直線ですが原爆投下後の復興都市計画によるもので、以前は東寄りの長崎大学病院の門前まで専用軌道でカーブを描いて通っていました。

0.4kmで大学病院前停留場。前述の様にかつての病院下停留場と専用軌道が原爆後の復興で廃止され現在の場所に1947年(昭和22年)に新設された停留場です。

0.2kmで浜口町停留場。1990年(平成2年)に開館した長崎西洋館が停留場のすぐ向こうにあってその中を電車が通るというユニークな構造。この停留場から専用軌道になります。

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この停留場までの路線は病院下停留場から専用軌道で住宅街を通っていました。原爆投下で不通になった後、新しい都市計画で1947年(昭和22年)浦上駅前からほぼ直線で結ばれるルートになっています。

長崎西洋館の中のトンネル(?)で蛍茶屋行とすれ違います。長崎電気軌道370形(昭和37年導入)。

JR長崎本線の横の専用軌道を走ります。

0.4kmで松山町停留場。原爆の爆心地(平和公園)に最も近い停留場。浜口町〜大橋間が原爆の直接的な被害が甚大だった区間です。2018年8月に平和公園停留場に改称される予定です。左上はJR長崎本線の高架。

専用軌道を行きます。正覚寺下行1号系統とすれ違いました。長崎電気軌道200形電車(208)は1950年(昭和25年)に導入された長崎電気軌道初のボギー車でした。奇数が201形、偶数は202形です。基本は同じ構造ですが奇数の201形は日立製作所製。偶数の202〜208は日本車輛製造でした。計10両が導入されました。1988年(昭和63年)に冷房化され、その際の屋根部分などの補強で外観が大きく変化しています。前照灯が正面上部から窓下に移されました。現在も201・202・203・204(花電車用に改造され電車貨車87形に)・207(2007年からビール電車仕様)・208(写真の車両)・209・210の8両が残っていますが、通常の営業運転に使用されているのは6両です。

0.4kmで大橋町停留場。1933年(昭和8年)にここまで延伸され1950年(昭和25年)にさらに延伸されるまで終点でした。駅名は当初”おおばし”と呼称されていましたが地域の歴史研究家の指摘で1990年(平成2年)”おおはし”に変更されました。

東に蛇行した浦上川を渡ります。

では次回【私鉄に乗ろう 60】長崎電気軌道 その3 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)