※この「私鉄に乗ろう」の写真は、筆者がプライベートな旅で撮影したものです。鉄道会社さんから許可をいただいていませんので、乗車券があれば誰でも入れる場所から、手持ちで撮影したスナップ写真です。ポケットに入るコンパクト・デジタルカメラ(SONY DSC-WX500)で撮影しています。2018年3月17日の撮影。

長崎電気軌道は路面電車

路面電車には、多くの場合、長い歴史があります。長崎電気軌道も例外ではなく1914年(大正3年)に会社が設立され1915年(大正4年)には病院下〜築町間が開業。戦前は営々と路線を伸ばしながら長崎港内連絡船営業などにも進出しました。1945年(昭和20年)8月9日、原子爆弾の投下によって全線不通、車両16両焼失、職員も120名が亡くなりました。

戦後は、徐々に運転が再開されます。1950年(昭和25年)には人口増加で大橋〜住吉間が延伸開業、1960年(昭和35年)に路線は赤迫まで伸ばされます。一方、戦災による運休で軌道敷を闇市に占拠されていた西浜町〜思案橋間が復旧し運転が再開されたのは1953年(昭和28年)と敗戦から8年近くかかっています。

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1964年(昭和39年)東京オリンピックの年には日本で初めてのラッピング電車(クライアントはカネボウ化粧品)を運行しています。

1968年(昭和43年)思案橋〜正覚寺下間が開通して現在の路線になります。同時に早くもワンマン運行を開始しました。

運賃は消費税導入後も据え置き

1984年(昭和59年)に大人100円(子供50円)に改定後1989年(平成元年)の消費税導入にも値上げを行わず、25年後の2009年(平成21年)に今後のバリアフリー対策費、安全運行対策費、運行情報管理システム導入費などのために120円(子供60円)に値上げされました。2014年(平成26年)の消費税率引き上げ時にも運賃は据え置かれています。エライ!

路線図を見てみましょう

長崎電気軌道のホームページの路線図です。

1号系統(青)赤迫〜正覚寺下  7.3km 35分
3号系統(赤)赤迫〜蛍茶屋   7.4km 33分
4号系統(黄)正覚寺下〜蛍茶屋 2.9km 14分
5号系統(緑)石橋〜蛍茶屋   3.5km 20分

全線で11.5km。軌間は標準軌(1435mm)です。

前日は、熊本での撮影を雨で断念、早めに長崎に移動して宿泊しました。昨夜は凄く寒かったのですが、地元の友人と楽しく一献してちょっと二日酔い・・・。一夜明ければ素晴らしい快晴です。※トップ画像参照

長崎駅近くに投宿していましたから出発は長崎駅前停留場。あらかじめ1日フリー乗車券(500円)を購入してあります。

すぐに赤迫行が来たので飛び乗ってしまいました。架線はセンターポール。乗った車両は1800形電車(1801)でした。

程なく0.4kmで八千代町停留場。古くは旧国鉄長崎機関区に通う職員用の通路がありました。戦後に新設された国道206号上の併用軌道に新たに停留場が移され1957年(昭和32年)御船町停留場に改称されましたが1969年(昭和44年)八千代町に戻されています。

0.4kmで宝町停留場。1915年(大正4年)の開業時は稲佐橋停留場でした。停留場から西に300m程歩いて稲佐橋を渡って数分北上すれば長崎ロープウェイで稲佐山の山頂に行くことができます。40年前クルマで眼下に長崎を一望する夜景を見に行ったコトを懐かしく思い出します。1957年(昭和32年)国道206号上に新たに移設され船蔵町停留場に改称されますが1966年(昭和41年)現在の宝町停留場に改称されています。停留場には歩道橋が併設されています。バリアフリー化はされていません。

0.5kmで銭座町停留場。ここも1915年(大正4年)の開業時は井樋(いび)の口停留場でした。1966年(昭和41年)銭座町停留場に改称。

駅名標。山側の地名、銭座は銭貨を鋳造する銭座があったことに由来します。停留場所在地は目覚町。

観覧車のあるバスターミナル「みらい長崎ココウォーク」の前を過ぎて、0.3kmで茂里町停留場。近いですね。1932年(昭和7年)に竹の久保通停留場として開業。戦時中は急行運転が行われたことで停留場が廃止されました。1954年(昭和29年)現在地に新設され竹の久保通停留場が再開されました。1966年(昭和41年)茂里町停留場に改称されています。

0.2kmで浦上駅前停留場。停留場の歩道橋はJR浦上駅の西側まで繋がっている様です。

JR長崎本線浦上駅が見えます。

青空の下、のんびりと路面電車の旅を続けます。次回【私鉄に乗ろう 60】長崎電気軌道 その2 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)