※2019年7月撮影

さて立山線の駅舎を撮ります。出発点の寺田駅は本線で取り上げたので重複を避けて稚子塚駅からスタートします。トップ画像は稚子塚駅に普通電鉄富山行普通でが到着したところ。

その前に富山地方鉄道立山線の歴史をザックリ振り返ります。

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1921年(大正10年)立山鉄道が既に開業していた滑川駅~五百石駅に加えて富山県営鉄道建設に合わせて五百石駅~立山駅(現在の岩峅寺附近 現・立山駅とは別)立山軽便鉄道で開業。1931年(昭和6年)富山電気鉄道が立山鉄道を合併。五百石駅~立山駅(岩峅寺附近)を1067mmに改軌、電化。1936年(昭和11年)に立山駅を廃止して岩峅寺駅に乗り入れました。

一方、岩峅寺駅~栗巣野駅(本宮駅と立山駅間にありましたが1981年廃止)間は富山県営鉄道が敷設。1927年(昭和2年)電化。1937年(昭和12年)栗巣野駅まで延長。1955年(昭和30年)千寿ヶ原(現・立山駅)まで開業。その後紆余曲越を経て1962年(昭和37年)富山地方鉄道に譲渡されました。

1969年(昭和44年)寺田駅~千寿ヶ原(現・立山駅)が立山線になり、立山線稲荷町駅~南富山駅間が不二越線、南富山駅~岩峅寺駅間が上滝線として分離されました。1981年(昭和56年)栗巣野駅(本宮駅と立山駅間にありました)を廃止。

寺田駅から1.4kmで稚子塚駅。

ここでお断りしておきます。寺田駅で驟雨にあったりして慌てた結果、コンデジのモードセレクト・ダイヤルが常用のオートから使ったことのないモードにズレてしまいました。沢中山駅でその事に気付くまでの写真が、明るい部分のトンだ奇妙なものになっていたのです。気付いた後、帰路に釜ヶ淵駅、下段駅の木造駅舎は再撮影しましたが、他については時間の関係でそのままになっています。可能な範囲で修正しましたが、例えば下の稚子塚駅の全体を撮った写真の様に明るい部分の細部がトンでいます。ご了承ください。

※2019年7月撮影

ホーム上の待合室です。駅名標は待合室に付いているものだけですが、何故か漢字と平仮名の2種類が掲出されています。隣の田添駅はひらがなヴァージョンだけでした。たぶん稚子塚駅だけの様です。

※2019年7月撮影

寺田駅側の踏切からホーム全体を撮りました。駅出入口はこの一箇所。道路側には駐輪場があります。このホーム裏の道路は比較的最近拡幅整備された様です。少し前の写真ではセンターラインの無いクルマ1台がやっとの細い道でした。駐輪場も道路整備に合わせて設置されたものです。

※2019年7月撮影

駅出入口の階段。

※2019年7月撮影

ホームの待合室に貼られた駅名標。漢字ヴァージョンと平仮名ヴァージョンの2枚という珍しい駅。2枚ともキレイに作り直されています。奥は寺田方面。

※2019年7月撮影

反対方面、奥は岩峅寺駅・立山駅になります。

※2019年7月撮影

ホームを寺田駅側に行って振り返っています。トップ画像はここに電鉄富山行上り列車が来たのです。

※2019年7月撮影

さて、ここで脇道に逸れます。レンタカーで立山線の寺田駅~岩峅寺駅を撮った日に稚子塚駅の駅名の元になった稚子塚を探したのですが、車載NAVIには出てこないし、近隣の方に訊いても稚子塚を知っている人がいなかったのです。

レンタカーを返却した翌日、高山本線で移動する予定でしたが出発時間を午後にして前夜ホテルで場所を調べた稚子塚に行くことにしました。駅名になった稚子塚駅よりも寺田駅からの方が若干近い様なので影の無い道を20分ほど歩いて行くと稚子塚が見えました。

※2019年7月撮影

立山線の踏切を渡ります。これなら場所が分かれば車窓から十分見えます。

※2019年7月撮影

周囲は約50m、高さ8.5m程の円墳。平成5~6年の調査で周囲に周濠(堀)と周庭帯(庭)があって全体は直径100mという巨大なものと分かりました。円墳の斜面全体が12万5千を超える膨大な石で葺かれていました。石材の重さは約500トン。中の埋葬部分の調査は行われていませんが出土した管玉(くがたま)などから5世紀前半に作られた、権力者の墓とのことです。

※2019年7月撮影

稚子塚の墳頂は平らになっていて昭和48年(1973年)に枯死した樹齢300年、高さ25mの老杉の切り株が左の屋根の下にあります。右奥の小さな社には蛭子神が祀られています。

※2019年7月撮影

稚子塚の前を富山地方鉄道の岩峅寺駅・立山駅方面行電車が通過しました。

※2019年7月撮影

さて、暑い日の散歩になりましたが、次回は田添駅に行きます。

(写真・記事/住田至朗)