トップ画像は、東叶神社の裏山、明神山の頂上にある浦賀城趾から見た浦賀水道の眺望。この日は房総半島もよく見えました。

最後の石段を登った正面が東叶神社の奥宮、本殿です。1981年(昭和56年)に創建八百年祭で再建されました。

その左手に勝海舟が断食した跡という標識。右の社は、元禄二年に勧請された東照宮、つまり徳川家康を祀る神社です。

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周囲は鬱蒼とした木々に囲まれていて眺望は全く開けません。東南の房総半島側に塔が建っています。

浦賀船渠、通称浦賀ドックの殉職者慰霊塔です。メモっていないので記憶に間違いがなければ「産霊坂」横の石碑にあった大正12年(1923年)の建立だったと思います。

殉職者慰霊塔の裏に1箇所、眺望が開けていました。ベンチも置いてあります。

立っていた札。浦賀城址とあります。城趾と城址の違いは詳(つまび)らかにできません。書物などでも混在している様です。

前回、東叶神社の札を見て書いた内容と重複するので略します。この明神山は、東叶神社勧請前は下田山、城山と呼ばれていたと書かれています。昔の灯台の役目をした浦賀燈明堂も見えるとあります。この明神山社叢林は、ウバメガシ分布の北限とのこと。またペリーの黒船が来航した時は眼下の左辺りに停泊したと書かれていますが・・・。

冬の二月に来ても植物に遮られてペリーの黒船が停泊した辺りは見えません。赤い矢印のところに浦賀燈明堂がありますが、肉眼ではちょっとシンドイですね。

もう少し右側。浦賀のマリーナも見えています。こんもりした丘の向こう、右側には久里浜があります。

植物は少し視界を遮りますが、浦賀水道がよく見えます。眺望絶佳です。トップ画像はこのカットを望遠レンズで撮ったものの1枚です。

トップ画像の右側。流石、船舶で混み合う浦賀水道という眺め。

ついつい気持ち良さそうに滑空する鳶(トンビ)を撮ってしまいます。

浦賀船渠(ドック)の殉職者慰霊塔の裏側です。

左の石段を下りて浦賀駅に戻ります。正面、右の東照宮は撮影しましたが、左の石段の奥にも小さな社があります。東叶神社よりも古く、永正二年(1505年)に創建された下田山の地主神「神明社」です。残念ながら写真を撮り忘れました。もう267段の石段は登りたくないので諦めました。

東叶神社から浦賀駅まで歩きました。徒歩20分ちょっとです。途中に、かつては繁栄していたと思しき料理旅館風の建物がありました。調べたら「徳田屋跡」といって吉田松陰が黒船を見るために来て宿泊し佐久間象山と会ったとか、浮世絵画家の安藤広重が泊まった徳田屋旅館があった様です。関東大震災で倒壊したので現在の建物はその後に建てられたものです。でも旅館風です。

海辺なので石造りの蔵も残っていました。

浦賀駅の少し手前、塀が延々続く場所にこの様なものが貼られていました。でも浦賀船渠(ドック)は対岸、西側にあるのです。何故でしょうか。

ほどなく浦賀駅に到着。これにて京急本線、品川駅~浦賀駅間の【駅ぶら】は終了します。さて残るは、久里浜線、逗子線、空港線、大師線の23駅です。どこから【駅ぶら】しましょうか。

【駅ぶら03】京浜急行102 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)