(前回)【1985年4月1日廃止 国鉄・万字線の現状と足跡(3)】閉山と鉄道廃止。美流渡を去る人・移住する人
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志文駅から始まった万字線の旅もラストスパートです。美流渡(みると)駅を出発した列車はフルーツの香り漂う沿線を抜け、万字駅を経て終点の万字炭山駅に進みます。現在の万字地区の様子を紹介します。

万字炭山の歴史

SL時代の万字駅(美流渡交通センター鉄道資料館所蔵)

路線名にもなっている「万字」は、最初に炭鉱開発を行った朝吹家の家紋「卍」にちなみ命名されました。1903(明治36)年に北海道炭礦汽船株式会社が事業を譲り受けて、1905(明治38)年から本格的な操業が開始されました。しかし脆弱な地質条件が災いして幾度となく坑道が水没するなど生産量が安定しません。1976(昭和51)年の台風6号で主力坑道が水没する甚大な被害を受け、復旧することなく閉山を迎えました。

簡易郵便局に再就職した万字駅

万字駅は簡易郵便局に転用

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万字駅は1914(大正3)年11月11日に開業しました。地形の関係で駅舎とホームは長い階段で隔てられています。1970(昭和45)年まで貨物取扱いが行われ、広大なヤードに給水タンクやターンテーブルが設置されていました。1979(昭和54)年3月4日に駅舎を改築。万字線廃止後は簡易郵便局として使用されています。改札口は封印されていますが、外からホームに続く階段を確認することができます。

自然の中に消えゆく万字炭山駅

在りし日の万字炭山駅(1984年4月撮影)

かつては人口5,000人を誇った万字地区も、現在はわずかに数世帯が住む小さな集落です。万字線が廃止された1985(昭和60)年は、寂しさの中にも住宅や商店に人の営みを感じたものでしたが、今ではそれもありません。特に万字炭山駅は変わり果ててしまいました。

鉄路はホッパーへと続く(1984年4月撮影)

万度炭山駅はホッパーまで線路が伸び、構内な広いヤードを有していました。もともと石炭輸送を目的とした駅であり、集落から離れていたため、廃線前の利用客数はわずか数人程度。すでに閉山と共に役目を終えた駅であったと言えます。

鉄道の形跡を見ることは困難

他の駅が何かに転用されたり、保存されたりしているのに対し、万字炭山駅は跡形もありません。一時は個人の別荘として使用されていたり、構内で馬が飼育されていた時期もありましたが、2013(平成25)年6月1日に駅舎が解体されました。不自然に草むらに点在するコンクリートの塊に人工物があった形跡を感じ取ることができます。

万字線最後の日の記憶

さよなら万字線まんじ号(万字線鉄道資料館所蔵)

最後に筆者が乗車した「さよなら万字線 まんじ号」の思い出を記したいと思います。同列車は廃止の月となる3月の週末から運行されました。万字線は岩見沢駅を発着としていましたが、さよなら列車は札幌駅の発着で急行型車両3~4両で編成されていました。廃止となる3月31日は、時間と共に地元の人や元の住民が増えていき、車内は同窓会のような雰囲気でした。

地元で人気のラーメン店だった京楽(1985年3月31日撮影)

街の様子が知りたくなり、私は万字駅炭山駅から万字駅まで歩くことにしました。空き家や倒壊した家も多く集落は静まり返っています。月明かりを頼りに万字駅に着くと一件のラーメン屋を見つけました。さっぱりとして美味しく、炭鉱夫の疲れを癒すように少し甘めの味付けだったことを覚えています。3月末でも雪深い万字は寒さも厳しく、一杯のラーメンに体を暖められました。

列車の出発を待つ万字炭山駅(1985年3月31日撮影)

22時51分、列車が万字炭山駅に到着します。通常であれば駅に停泊し、翌朝6時37分発の岩見沢行きになりますが、明日からは列車が走ることがないため、札幌行きの特別列車となります。

(1985年3月31日撮影)

「万字炭山にこれほど多くの人が集まることは二度とない」と思うほどホームは人で埋め尽くされ、地元有志から機関士と車掌に花束が贈られました。22時56分に最終列車が出発。テールランプが闇に消えて行き、万字線は71年の歴史に幕を下ろしたのでした。

文/写真:吉田匡和