大須賀山には自然の海岸林が残っています【駅ぶら05】京成千葉線195
※2022年7月撮影
トップ画像は、房総往還沿いの大須賀山。子守神社から500mほど。手前のコンビニで冷たいお茶を買って涼をとりました。
千葉県教育委員会の案内。
※2022年7月撮影
内容を写します。
「幕張町は、古くは千葉郡大須賀荘須賀原あるいは幕張本郷と呼ばれ、江戸時代以後は馬加(まくはり)村と呼ばれていた。この丘の中腹に大日堂があり、元は独立した寺院だったと伝えられ、御堂があることから堂の山とも呼ばれます。
(自然環境について)この丘は標高15m程で、南側は埋立てられるまでは、直接東京湾に面していました。現在でも自然の海岸林が残り、市内では貴重な自然です。林は海風を受け、タブノキを主にスダジイ、ツバキ、ヤブニッケイ、ヒサカキ、トベラを混え、西から東へ林相が変化して行く様子が見られます。
(文化財について)階段上の右に文政11年(1828)関脇に昇った郷土力士荒馬大五郎(年寄宮城野馬五郎)の供養塔があり、左前方が大日堂で、以前大日如来が祀られていたが宝幢寺に遷され千葉市文化財となっています。またかって御堂では旧暦2月に天道念仏という踊念仏が行われていた。左奥の坂上には馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚と伝えられる方形の塚と、その上にその供養のために建てられたという江戸初期の五輪塔があります。」
ここでも馬加は「まくはり」と読まれています。あちこちの案内には、昭和30年代まで海岸線が、現在の国道14号線辺りだったと書かれています。
では階段を上がります。
※2022年7月撮影
「荒馬紋蔵」という幕張一丁目・本郷町内会の看板がたっています。左の看板は「首塚はこの先 左折」と書かれています。
※2022年7月撮影
教育委員会の案内にあった荒馬大五郎の供養塔と思われます。「通称紋重郎 1793年(寛政5年)~1849年(嘉永2年)下総国千葉郡馬加村(幕張一丁目)に生まれる。」ペリーが浦賀沖に現れたのが嘉永6年でしたから江戸末期のお相撲さんです。
左折、と言われても・・・暗い藪の中に入って行くのです。
※2022年7月撮影
コンデジなので明るく写っていますが、かなり暗いです・・・。
※2022年7月撮影
馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚と言われる方形の塚があります。
※2022年7月撮影
この枯葉と泥の階段を上がるのが意外にタイヘンでした。(笑)
※2022年7月撮影
寛永16年と刻まれた五輪塔。1639年です。大阪夏の陣で豊臣家が滅んで24年後。江戸幕府が開かれて30年ほど経った頃に建てられたものです。
※2022年7月撮影
一方、馬加康胤は、室町時代前期、14世紀の武将。室町幕府に支持された関東管領上杉氏と対立した鎌倉公方足利成氏が下総に逃れ、下総守護の千葉氏、当主は幕府側、康胤は成氏側にたち対立しました。その後宗家を亡ぼした康胤は、千葉氏の19代当主になりましたが、幕府側に敗れました。【駅ぶら】「太田道灌の弟 図書助資忠の墓」(152回)でこの戦のことに触れています。その時に知った歴史です。(笑)
大須賀山を北側にぬけて道祖神社を探します。
※2022年7月撮影
どうやらこの小径の先に道祖神社がある様です。また暗い・・・。
※2022年7月撮影
次回は、不思議な道祖神社です。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京成電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。