※2023年5月撮影

トップ画像は、千歳烏山駅の南、寺院通り。次の角を右に曲がるのが小学生だった筆者の通学コースでした。

曲がると100m以上、両側はお寺と墓地です。筆者は日々、斯様に人の気配の少ない通学路を歩いていました。(笑)

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※2023年5月撮影

右側に桜田山存明寺。

※2023年5月撮影

このお寺は、約五百年前「後光明天皇」の御代(正保4年)に、現在の桜田門に法名釈願龍法師によって創建されました。その後、芝金杉に移り数度の類焼に遭い、明治31年に麻生富士見町(今の天現寺橋)に移転しています。関東大震災の復興都市計画で境内地のほとんどが道路用地に接収され、昭和2年に千歳烏山寺町に移転することになりました。

※各お寺の紹介は、世田谷区「寺院通り区民集会所」の紹介文などを参照しています

そのお隣、天護山妙祐寺。

※2023年5月撮影

実はこのお寺に円証君(弟は円和君、字が間違っているかもしれません)という筆者の弟のクラスメートがいて、とても仲が良かったので筆者もお寺に何度か遊びに来ました。たぶん円証くんが現在住職さんをやっていると思います。

※2023年5月撮影

歴史の古いお寺です。弘安9年(1286年)時宗の一遍上人が建立。天護山円証寺と称していましたが大永年間(1521~27年)に兵火の災を受けて廃絶。その後、寛永2年(1625年)浄土真宗の僧了頓が渋谷の土中より阿弥陀仏像を発見、これを本尊として満歳山学恩寺を開山。妙祐寺では了頓を中興の開山としています。その後延宝5年(1677年)寺号を妙祐寺と改めました。太平洋戦争の戦火で全堂を消失。現在地に昭和23~24年にかけて墓地を移転し現在に至っています。古代インド様式の本堂は、昭和37年(1962年)に建立されたものです。オシャレなのホームページがあります。

そのお向かいに一心山稱往院極楽寺。大きなお寺です。

※2023年5月撮影

世田谷区教育委員会の案内があります。

※2023年5月撮影

内容は

「一心山極楽寺 称往院(浄土宗)

当寺は慶長元年(1596)白誉称往上人(はくよしょうおうしょうにん)により湯島に創建されたが、明暦の大火で浅草に、さらに関東大震災により昭和二年(1927)当地に移転した。

本尊は丈六の阿弥陀如来である。浅草のころ当寺は、寺内の道光庵庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られたが、修行の妨げになるとして天明六年(1786)「そば禁制」の碑が当寺住職により建てられた。

この碑は同庵にあった俳人其角の句碑・墓とともに現在、当寺に残されている。

平成二十一年三月 世田谷区教育委員会」

一説によると蕎麦屋に「〇〇庵」という名前が多いのは、この道光庵庵主のつくるそばが有名だったからだと言われています。

妙祐寺のお隣、春陽山永隆寺。

※2023年5月撮影

徳川家康の囲碁の師匠であった利玄院日義上人が寺領を神田鍛冶橋に受けて当山を建立したと言われています。寛永年間、谷中清水町に移転、更に元禄4年(1691年)、本所出村(後の大平町)に再移転しています。本所出村は、地盤が低くしばしば、水害にあったそうです。水害で古記録などが流失してしまったとのこと。関東大震災後の昭和3年(1928年)に現在の地に移転しました。当寺には、徳川家康公側室養珠院(お万の方)より頂いた大黒(石像)があります。

永隆寺のお向かい、来迎山宗福寺。

※2023年5月撮影

このお寺の寺誌は、安政3年の火災により消失したため不詳です。東京市史稿・武蔵風土記等によると、開山は清蓮社浄誉秀公上人、来迎山光明院宗福寺と称し、道灌山下新堀村の中央にありました。関東大震災後、東京府都市計画法による道路拡張の為、墓地、本堂、庫裡等、全建造物が収用され代替地を現在地にし、昭和3年(1928年)に移転を開始、その後本堂を新築し、庫裡山門墓地を移築し昭和4年(1929年)に完了。このお寺には小説家山手樹一郎氏のお墓があります。

すみません、寺院通り散歩はもう少し続きます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)