※2023年8月撮影

トップ画像は「浅間山公園」の「浅間神社」に設置されている府中市教育委員会による案内板。しかし設置は、昭和60年1月です。1985年(昭和60年)から、ほぼ40年近い月日が流れていて記された文字はほとんど読み取ることができません。

幸い2008年(平成20年)3月に撮った写真では文字がハッキリ読み取れるので内容を以下に写します。

「浅間山

浅間山は前山・中山・堂山の三つの小さな峰からなり、その名は堂山の頂に祀られている浅間神社に由来します。海抜80メートルで、周囲との高さの差は30メートルに過ぎませんが、周囲にさえぎるものがないため、眺望はなかなか良好です。

この浅間山は、地質的にみると、多摩川対岸の多摩丘陵と同じで、古多摩川やその他の河川により周囲がけずり取られ、ここだけが孤立丘として残ったものと考えられています。

また浅間山を中心に、その周辺に広がる人見ヶ原の地は、かつて南北朝時代の正平7年(1352)、足利尊氏と新田義興・義宗兄弟の軍が両朝の命運をかけてたたかった古戦場であり、都の旧跡に指定されています。

昭和60年1月   府中市教育委員会」

筆者の実家の近くに東京都指定旧跡「金井原古戦場」の石碑があります。

※2023年8月撮影

東京都教育委員会の案内板には、以下の様に記されています。

「金井原古戦場は、南北朝時代に起こった武蔵野合戦の戦場のひとつで、北朝の足利尊氏と南朝の新田義興・義宗兄弟の軍勢が激突した場所です。

室町幕府の内部抗争に端を発した観応の擾乱の最中、観応2年(正平6年)(1351)に北朝の足利尊氏は、対立していた弟の直義を追討するため、南朝に降伏する形で講和する「正平一統」を行いましたが、翌年には南朝方の京都への進攻を機に、この講和は破綻します。時を同じくして、新田義貞の子、義興・義宗兄弟が、後醍醐天皇の皇子宗良親王を奉じて、関東で挙兵します。観応3年(正平7年)(1352)閏2月20日、新田兄弟は人見原(府中市)から金井原にかけての一帯で尊氏の軍勢と戦い、義宗が尊氏を打ち破ります。この時、尊氏は石浜(台東区)まで敗走しました。この金井原の地が、現在の小金井市前原町付近と考えられています。

昭和34年、小金井市により、霊園通りと小金井街道の交差点に「史跡 金井原古戦場」碑が建立されました。

平成28年3月 建設  東京都教育委員会」

「浅間山公園」に戻って神社の裏からの眺望。木々の葉が遮って眺望は開けません。

※2023年8月撮影

2008年(平成20年)3月の眺望。やはり冬は、落葉で眺望が開けていました。少し方角が異なりますが米軍府中基地跡の巨大なアンテナが見えています。

※208年3月撮影

「浅間神社」の石段を上から見下ろしています。かなり急坂に見えます。

※2023年8月撮影

半分ほど石段を下りました。下の鳥居が見えました。

※2023年8月撮影

石段を下って、下から。

※2023年8月撮影

オリジナルが縦型なのでちょっと見難いのですが、2008年(平成20年)3月に来た時は、ロープがはってあり通行禁止でした。特に変化はない様に見えますが、安全上の整備中だったのかもしれません。

※2008年3月撮影

東側の浅間山通りを北に下ってゆきます。右は多磨霊園。

※2023年8月撮影

すその道の北東の角に「男坂」の登り口があります。

※2023年8月撮影

府中市の由来碑「男坂」、記載内容は以下です。

※2023年8月撮影

「この坂は、浅間山の山頂にある浅間神社への坂道です。勾配がたいへん急なところからこの名があります。この「男坂」に対して西側に「女坂」があります。〈後略〉

昭和60年3月 府中市」

登り始めました。過去に何度も登っていますが、気温が高いことと、木々の葉が鬱蒼と繁っていて写真よりも足下が暗く、危ないので登るのを中止しました。

※2023年8月撮影

北側の住宅街の中を通ってバス停に戻りました。バスを待っている間が、無風状態で暑かった!冷えたバスに乗って東府中駅までの間が最高の休憩になりました。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)