多摩川は万葉集の舞台でした【駅ぶら】06京王電鉄286 相模原線06
※2023年11月撮影
トップ画像は「調布第一陸閘(りっこう)」まで戻って「多摩川堤通り」越しに「玉川児童公園管理棟」。管理棟の周囲は小さな公園になっています。
再び「多摩川サイクリングロード」、正にこの場所が次の映画の舞台でした。
※2023年11月撮影
管理棟の東にある公園。
※2023年11月撮影
ここに「万葉歌碑」の大きな石が立っています。
※2023年11月撮影
横に「東京調布ロータリークラブ」贈の案内。
※2023年11月撮影
記載は以下です。ちょっと長いのですがとても興味深い内容でした。
「調布市は地形上武蔵野台地の南縁部に位置しており、武蔵野段丘と立川段丘からなる雛壇上の地形は、調布の歴史の有様に常に大きくかかわっております。そして、目の前を流れる多摩川は、まさに調布の文化を生んだ「母なる川」と言えるでしょう。次に掲げる万葉集の二首は調布の風土を歌った代表すべき歌ではないかと思います。
多摩川に さらす手作(て/たづくり) さらさらに
何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき -東歌-(巻十四)
多摩川畔の古代の農村では調(貢物)として手作(手織)の麻布が多く貢納され、その貢納の布を白くするために、清流に洗い日にさらすのは、農村の女性の共同の仕事でした。その「サラス」の音にかけて“サラ二サラ二どうしてこの娘がこんなにもたまらなく可愛いのか”とうたっているのです。生活環境と古代多摩川の郷土色を反映させた真情に躍動を見せています。
赤駒を 山野に放し 捕りかにて
多摩の横山 徒(かし)歩ゆか遣らむ
防人椋橋部荒虫の妻宇遅部黒女(巻二十-四四一七)
天平勝宝七年(775)二月防人交替のときの、武蔵国豊島郡出身の防人の妻の歌であります。防人は九州、壱岐、対馬の辺要を守る兵士で、当時、東国から徴集され、三年交替で、国々の役人に引率され、難波津に集結し太宰府に送られます。当時、防人は馬で行くことを許されていたので、遠い旅路をせめて馬で行かせたいという妻の心であったが、折から放牧時季であったため、赤馬を山野に放しているのが捕まらず、多摩の横山の道を歩いて行かせねばならなくなったという妻の嘆きの歌であります。(犬養孝氏の解説引用)
調布市には古代より様々な歴史が刻まれた足跡が残っております。東京調布ロータリークラブは創立40周年記念事業として万葉歌碑を建立し、少しでも多くの人たちが調布のことを知り、ふるさとに対する愛情を持っていただけることを願っております。
平成15年11月10日 東京調布ロータリークラブ 贈」
2首目の歌は「高尾線」22「めじろ台駅」で訪問した「万葉公園」の「万葉歌碑」に刻まれていた歌と同一でした。
※2023年11月撮影
長くなってしまうので次回に続けます。
(写真・文/住田至朗)
※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。
※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。
※参照資料
・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)
・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他
下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました
・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)
・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)