※2025年6月撮影

トップ画像は「千住歴史プチテラス」。あだち観光ネットに拠れば、千住の元地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を平成5年(1993)に移築しています。棟札から天保元年(1830)3月の建築。

入口の右に「元青物問屋 柏屋」の木札と「やっちゃ場の最大の特徴 投師の存在」の説明パネルがあります。

※2025年6月撮影

このパネルの内容が貴重な情報でした。内容を写します。

「やっちゃ場の最大の特徴 投師の存在

通称「投師」正式には出仲買商という。千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。店を持たず仲買人の店先を借り、セリに参加していち早く大八車に品物を積み東京市内の全市場え(ママ 以下同じ)駆けつけ売り捌くのである。セリはその為に夏は早朝3時半から始まっていた。何が利幅があるかは情報が勝負である。昭和初期の投師は百五拾人位いである。市内の市場は投師の持込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。それだけ千住のやっちゃ場が巨大な市場であったと言う事であろう。」

更にその下に「投師 異聞」という記事もあって、これも興味深いので写します。

「投師 異聞

投師の総数は約150人位い、各人行き付の市場があり、神田市場え、京橋市場にその他市内各市場に投師が広がって行ったのである。やっちゃ場を出てすぐに千住大橋の急坂を上り下りしなければならない。梶棒取りと押手のみでは荷が重くて上り下り出来ない。そこで登場するのが通称「オッペシ屋」と呼ばれる人達である。上り下りで何銭と決めて投師の専属で請負うのである。人が集まればそこには全体を差配する元締の登場となる。職業が次の職業を生んだのである。投師一人で大八車1台とは限らない。2台3台と経済の拡大と共に増加する。毎日やっちゃ場から4、5百台の大八車がまだ明けやらぬ大橋を渡って行くのである。手ブラ提灯の光が大橋の坂を下り右は金杉から根岸え、左はこつ通りから日本堤・浅草方面えと提灯の帯が続き大橋より俯瞰するとガラガラと言う大八車の音と共に光の帯が天の川の流れのようだったと言う。この厖大な野菜が毎日東京の人々の胃袋え吸込まれていったのである。昭和20年4月の空襲でやっちゃ場は焼野ヶ原となり問屋30数軒が日光道中の街道の両側に集合して出来た青物市場は370年の歴史を閉じたのである。但しどっこい投師は生きている。その子孫が現在も築地、北足立、淀橋等の市場で仲買商として脈々と続いている。」

「千住歴史プチテラス」にお邪魔します。前庭もなかなかシック。写真上部が逆光で半分トンでいます。

※2025年6月撮影

「やっちゃ場の由来」があります。

※2025年6月撮影

内容を写します。

「やっちゃ場の由来

やっちゃ場は多くの問屋のセリ声がやっちゃいやっちゃいと聞こえてくる場所(市場)からきたと言われている。古くは戦国の頃より旧陸羽街道(日光道中)の両側に青空市場から始まり、江戸・明治と続き大正・昭和が盛んだったと聞いている。

街道の両側に30数軒の青物問屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響きわたり江戸・東京の市内に青物を供給する一大市場だった。昭和16年末に第2次世界大戦の勃発により閉鎖となり、以来青物市場は東京都青果市場へと変わっていき、やっちゃ場という言葉のみが残った。

五街道の奥州街道・日光道中の両側に30数軒の青物問屋が軒をならべている。まさに専門店街である。日本の専門店街はここから始まった。」

もう一枚、やっちゃ場の説明があります。

※2025年6月撮影

重複する部分もありますが写します。

「千住市場の1日は夜中からはじまります。

荷主(山方)は夜通しで千葉・埼玉・群馬・栃木・茨城方面から荷車を引いて午前2時頃に到着し各問屋の二階で休息し“せり”が始まるまで仮眠します。

午前3時頃買主(仲買人)が集ると各問屋の庭先で立会がはじまります。

当時立会にせりを行ったのは千住だけで他の市場は皆相対取引でした。

特に千住だけに投師という出仲買人が居りました。投師というのは千住の問屋で買った品物を他の市場(駒込・神田・京橋・浜町等)へ運んで商売する人等でした。

これ等の人達で行うせり声が威勢よくヤッチャイ、ヤッチャイと聞こえたことから千住市場のことをヤッチャバというようになりました。

この他に千住には買主の荷物を運ぶ軽子(かるこ)という人達が居りました。」

興味深い写真やパネルがたくさん並んでいます。古い土蔵の内部らしい佇まいも魅力があります。

※2025年6月撮影

お酒を入れる陶製の酒樽が足元にありました。

※2025年6月撮影

灘・伏見で醸造された酒を木樽に詰めて江戸に運んできたものを、小分けにして小売用にしたのです。

古典落語を聞いているとよく出てきますが、当寺は運ばれてきた原酒を水で割って酒は小売されていたのです。だから江戸っ子達は、何処の酒は濃いだの薄いだのと大騒ぎしたのです。

奥にもお庭があります。ここも上質で気持ち良い空間でした。

※2025年6月撮影

旧日光街道に戻って南に歩き京成本線の高架をくぐると「此処は元やっちゃ場南詰」というパネルがありました。ここがやっちゃ場の南の端だったのですね。

※2025年6月撮影

書かれている文章は、「千住歴史プチテラス」で見た「やっちゃ場の由来」でした。

更に南進。国道4号線と合流する手前に「千住宿 奥の細道」というスペースがあります。

※2025年6月撮影

北千住駅から1.3kmほど。流石に炎天下で草臥れました。

芭蕉の句碑があります。

※2025年6月撮影

「鮎の子の しら魚送る 別哉(わかれかな)」

旧暦2月頃に産卵のために川を溯る白魚。鮎はその少し後に遡上すると言われました。芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門人を鮎に見立てています。

この句は、「奥の細道」冒頭の矢立の句「行春や 鳥啼魚の目は泪」に先立って詠まれた句でした。

しかし、芭蕉は「奥の細道」にこの句を採用しなかったのです。

※手元の『袖珍版 芭蕉全句』(堀信夫監修 小学館 2004年11月20日発行)を参照しました

芭蕉の石像が建っています。

※2025年6月撮影

左のパネルに次の様に書かれています。

「平成16年は、芭蕉生誕360年に当たり当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。

千住は奥の細道への旅立ちの地であり矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目に泪」の句が残されています。

此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号 菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。

芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。

もしかしたら芭蕉と曾良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかもしれません。

遠い江戸の遙かな空へ夢とロマンを掻きたてます。

人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。

奥街道を旅する事で何かを感じるかもしれません。

遙かなる奥の細道へ

千住大振会・河原(旧道を楽しくしよう会)」

平成16年は、2004年。ほぼ20年前です。

時々書きますが、西暦で表さないと何年前なのか、筆者には即座に分かりません。

地元の皆さん、頑張ってますね。

次回も散歩が続きます。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などはつくばエクスプレス(首都圏新都市鉄道株式会社)の許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

首都圏新都市鉄道株式会社 会社要覧2024

るるぶ情報板関東31 つくばエクスプレス JTBパブリシング 2025年5月1日

つくばエクスプレス沿線アルバム 生田誠 山田亮 アルファベータブックス 2023年8月5日

つくばスタイル No.12 枻出版 2011年4月10日

つくばエクスプレス 最強のまちづくり 塚本一也 創英社 2014年10月23日 他