※この「私鉄に乗ろう」の写真は、筆者がプライベートで旅行して撮影したものです。鉄道会社さんから許可をいただいていませんので、乗車券があれば誰でも入れる場所からの写真です。素人のスナップ写真なのでクオリティーには目をつぶってご覧ください。

樽見鉄道は鉄道敷設法別表の「大垣ヨリ福井県大野ヲ経テ金沢ニ至ル鉄道」の一部として旧国鉄時代の1935年(昭和10年)に着手され1956年(昭和31年)に大垣〜谷汲口間が開業しました。1958年(昭和33年)美濃神海まで延伸開業。しかし、この後は樽見まで延伸開業するのに30年以上経った1989年(昭和64年=平成元年)までかかりました。

工事着工から樽見まで開通するのに50年以上もかかったために「名前が樽見でも樽見を通らない樽見線」と言われてきたのです。

沿線は今も昔も人口希薄地帯です。本巣に誘致された住友セメント(現・住友大阪セメント)からの貨物輸送がメインの路線でした。

1980年(昭和55年)12月に国鉄再建法が公布され、樽見線は第一次特定地方交通線に指定され廃止対象になりました。日本鉄道建設公団によって神海〜樽見間の工事は費用の76%が完成していましたが、1981年(昭和56年)に凍結されました。

結果的に第三セクター方式が選択され、大垣市に本社を置いて西濃鉄道や住友セメントが主な株主の樽見鉄道が設立されました。1984年度に経営が転換されました。

神海〜樽見間の工事も1986年(昭和61年)に再開され1989年(昭和64年=平成元年)に延伸開業したのです。

しかし2006年(平成18年)、最盛期には54万トンあった貨物営業が廃止されてしまいました。さらに樽見鉄道にとって不運なことに沿線には大垣市と学区の異なるエリアが多く高校生の通学需要が見込めないことでした。

ただ北方真桑駅には岐阜第一高等学校(2016年から男女共学)、国立岐阜工業高専、岐阜県立本巣松陽高校があるので大垣から北方真桑間は生徒達の通学で賑わいます。このため朝夕の通学時間帯は大垣〜本巣間でかつてはディーゼル機関車が客車を牽引して運行されていた時代もありました。

樽見鉄道の大垣駅はJR大垣駅の5番線ホーム(岐阜・名古屋方面)の先、6・7番線ホームを使用しています。

JR5番線ホームの先に切り欠かれた樽見鉄道の6番線ホームがあります。

07:13発の樽見行が入線してきました。2005年新潟トランシス製ハイモ295ー510形(516)、7両ある樽見鉄道のディーゼルカーで唯一樽見鉄道色塗装です。

樽見行はJR5番線ホームの向かい側7番線ホームからの発車です。

発車するとJR5番線ホームの先を切り欠いた樽見鉄道6番線ホームが見えました。

大垣を出るとしばらく架線のあるJR東海道本線と並走します。JR東海311系快速電車とすれ違います。

揖斐川の手前で東海道本線と分かれ、樽見鉄道は最初の東大垣駅に着きます。

東大垣駅のホーム長は2両分しかありません。ハイモ295ー310形(315)と列車交換。故池田満寿夫氏のデザイン。駅の向こうに揖斐川橋梁が遠く見えています。

揖斐川橋梁に向かって登ってゆきます。右の方にはJR東海道本線の橋梁も見えています。

揖斐川橋梁は6連トラス橋で321.7m、1956年(昭和31年)に国鉄樽見線大垣〜谷汲口間開業の時から使われています。

揖斐川橋梁、元はJR御殿場線の橋梁を移築再利用したものです。1935年(昭和10年)に国鉄樽見線が着工され一旦は新造の橋梁が架構されたのですが太平洋戦争によって工事が中断され完成間際の橋梁は不足している鉄の資材として撤去されてしまいました。

戦後、工事が再開され、御殿場線5ヵ所の橋梁を再利用することになりました。御殿場線は、かつては東海道本線として複線化されていたのですが丹那トンネル完成で単線の地方線となり戦時中の資材不足から上りの線路だけが撤去されたもので、戦後も余剰となって放置されていた6つ橋梁トラスを転用したのです。

最初に一つだけ使われている100フィートトラスは1916年(大正5年)川崎造船製。

続く200フィートトラス×5連は1900年(明治33年)アメリカ合衆国のAアンドP・ロバーツ製。120年近く使われていることになります。鉄橋というのは本当に長持ちするものだと感心します。

揖斐川を渡ると瑞穂市になり横屋駅に着きます。1960年(昭和35年)開業。

揖斐川を渡って横屋に着いたところで一旦終了。【私鉄に乗ろう 09】樽見鉄道 その2 十九条駅〜織部駅 に続きます。

(写真・記事/住田至朗)