先回の『鉄道員/ぽっぽや』よりも時期的にはこの作品の方が先に書かれています。1995年(平成7年)吉川英治文学新人賞を受賞した作品です。

『鉄道員/ぽっぽや』は、短編ファンタジー集というのでしょうか、例外はありますが、幽冥界との接触が作品の「肝」になっていました。『地下鉄/メトロに乗って』は「地下鉄」という車窓には闇だけが写る乗物と地下に続く階段がタイムスリップ装置になります。

SFっぽい、ということはありませんでした。『夏への扉』(ロバート・ハインライン/ハヤカワ文庫)が主人公とネコのタイムトリップの話だ、という程度は読んで知っていますが、浅田さんの作品では主人公と「存在し、且つ存在しなかった人間」の2人だけがタイムスリップします。

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この2人をめぐるタイムパラドックスが厳密に考えると微妙な気がします。「存在し、且つ存在しなかった人間」の恋心が『鉄道員/ぽっぽや』収録の「ラブレター」という作品に登場した「手紙だけを残して死んでしまった人」と相似形の印象があります。

余談ですが、ハインラインは晩年の『愛に時間を』(ハヤカワ文庫)が一番好きです。

しかし、主人公が心から嫌い反発する父親と、主人公が実はとても似ていること、父親の若い頃の設定と現在がうまく結びつかないなど、読んでいて少し不安定な気持ちになりました。登場人物たちが「取って付けた様なステロタイプな所作と感情しか持ってない」というのは物語を安定させてくれますが、奥行きの狭さが若干の息苦しさを感じさせます。

何と言うか『鉄道員/ぽっぽや』の登場人物たちが削ぎ落とされていた余計な湿潤が残っているかの様です。

むしろ浅田さん自身が好む時代の風景をえがいている部分が魅力的です。楽しみながら慈しむ様に書いたんだろうなぁ、という温もりを感じます。

新中野駅は子供だった主人公が最初に見に行く地下鉄の駅です。浅田次郎さんは1951年生まれなので地下鉄が開通した時、10歳、鍋屋横町に住んでおられたので、主人公が開通した地下鉄を見に行くシーンは実体験も混じっているのかもしれません。

しかし通過する車両からは、子供だった主人公にむけられた主人公(語り手)の視線もあるのです。主人公と「存在し、且つ存在しなかった人間」、そして野平/のっぺい先生、主人公の父親が集合的な人格であるのかもしれません。

時間というものの蓋然性について考える。〈中略〉記憶という暗い流れの中で、孤独な人間を乗せて行きつ戻りつしている小舟が、時間というものの正体だと真次は思った。
 だから正確には、時間を共有している人間などひとりもいないのだ。 本書 p.36

真次というのはこの小説の主人公の名前です。

潔癖なまでに平易な言葉で小説を書く浅田次郎さんですから、この部分には、もしかすると作者の意図した陥穽があるのかもしれません。乱暴に言い換えてしまえば「時間の蓋然性」とは「時間というものは確かめようも無く不確かなものだ」ということです。

時間という言葉は、ひじょうに難しい問題を多岐にわたって含んでいます。芸術、哲学、自然科学(主に物理学)、心理学とそれぞれに「時間」は重要な主題になっていますが、扱っている「時間」が、およそ同じものとは思えない程に、それぞれのアプローチが異なっているのです。

大学1年生の時に読んだ理論物理学者渡辺慧さんの「時」(河出書房新社/1974年)を途中で放り出した筆者に量子力学の「時間」は皆目分かりませんが、大乗仏教唯識派の「時間」も巨大な上に微細過ぎてなんだか爪楊枝で作った実物大の大阪城の様で、その荒唐無稽は孫悟空どころではありませんし、カントだのバシュラールだのの哲学騒動も大森荘蔵先生のエッセイは好きですが用語間に恣意的な齟齬があって(翻訳で読むからですよね)ヨクわかりません。バートランド・ラッセル卿もイマイチすっきりしていません。数学と蓋然性はソリが合わないのです。

カート・ヴォネガットの『タイム・クエイク』(ハヤカワ文庫)くらいまで「ぶっ飛べ」ば、むしろ「時間」は個々人が選ぶ冗談のスタイルと大差のない災難のカテゴリーになっちゃいます。

ハイホー。

冗談を解説するほどの無粋はありませんが、大乗仏教唯識派は三蔵法師(孫悟空の親分、玄奘三蔵)がインドから中華にもたらした教えです。日本の仏教も基本的にはその流れの先にしかありません。上座部仏教(小乗仏教)は日本と中国には伝わっていないのです。斉天大聖もお釈迦様の手の内という理由です。

話が漱石先生に”猫”を書かせたトリストラム・シャンディ(ローレンス・スターン/岩波文庫)の様に錯綜していますが『地下鉄/メトロに乗って』の、あれよあれよと物語に押し流されてしまう奔流の激しさにリンダ困っちゃう。(ふっる〜)

どうやら、要(かなめ=結節点)は「野平先生/のっぺい」らしいことに読者は気付きます。おそらく浅田次郎さんが周到に用意したスタビライザーかもしれません。彼だけがこの作品を流れる時間から自由なのです。それは作中で時間の中を自由に移動するという事ではありません。時間の流砂に脚を捕られていながらも、その流砂の流れを自分の眼で視ているから、彼自身は流砂から自由なのです。

そして主人公が憎む父親が実は主人公の分身で(むしろ主人公が父親の分身で)、父親の見る夢の中に2人の実子が迷い込んでして、死を迎えようとする巨大な意志の最後の走馬燈に翻弄されている様でもあります。あるいは野平/のっぺい先生は、恐山のイタコの様な役割をしている様です。

その意味で、この小説はタイムスリップではないのかもしれません。タイムパラドクスもそう考えれば問題ではなくなります。たぶん浅田次郎さんの「物語の奔流」に身を任せる、という快楽のための305ページです。

そして、流されるのは、頗る気持ち良かったです。

そうだ。メトロに乗って行こう!