ちょっとした用事があって新橋に行ってきたので(写真は鉄道唱歌の碑)、新橋と関係のありそうな鉄道ミステリを読むことにしました。というわけで「バッシーの『鉄道ミステリを読む』」第三回は鮎川哲也『黒いトランク』。今年は生誕100周年ですしね。

いや、実のところ本作の主な舞台は九州だしそもそも作中で出て来るのは汐留駅だし、初めての鮎川哲也作品で『黒いトランク』は正直ちょっと難易度が高いのではと感じる節もないではないんですけど(それこそ『下り”はつかり”』のような短編集が入り口には最適では?)、まあ里程標的名作とまで言われている本作、初心者マークの内に読んでおくのもいいかなと……そういうわけで『黒いトランク』初挑戦です。

『黒いトランク』は1956年の講談社の書下し長探偵小説全集第13巻募集に応じたもの。この辺りの経緯は創元推理文庫『黒いトランク』のKindle版にも収録されているから詳細は省くとして、前回取り上げた『点と線』の連載開始が1957年なので、およそ1年前の作品になります。ただし数年寝かされていたこともあってか、『黒いトランク』の年代設定はそこから更に数年遡る1949年。まだ戦争の爪跡が各所に残る時代ですね。

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1947年には一時的にとはいえ急行さえ全く運行出来ていない時期があったほどで、お世辞にも鉄道の運行状況は芳しいと言えるものではありませんでした。そうはいっても徐々に持ち直してきてはいたのでしょう。1949年には戦後初の特急列車「へいわ」が走り始めます(戦前の特急列車は1944年に廃止)。食堂車の復活も1949年。

まあ1949年の鉄道を代表するニュースといえば、前年11月30日に国会を通過した「日本国有鉄道法」に基づき6月1日に公共企業体日本国有鉄道が発足したのがやはり一番大きなもので、それをきっかけに「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が生じたのですが……これは本作とは特に関係ないので今回は触れません。下山事件はいずれデイヴィッド・ピースの『TOKYO YEAR ZERO』の第三部が出た時にでも触れるとしましょう。

さて、『黒いトランク』。

本作は汐留駅に届いた「黒いトランク」から腐乱死体が発見される、という衝撃的なシーンから始まります。トランクは福岡県の筑豊本線二島駅から、近松千鶴夫という男によって発送されたものでした。福岡県の若松警察署では早速本件の捜査を開始したのですが、行方をくらましていた近松までも遺体として発見され、殺人犯近松の自死により事件は決着したと見られます。

ここで登場するのが鬼貫警部。汐留にトランク詰めの遺体として届いた男・馬場番太郎、最有力容疑者である近松千鶴夫、そして近松の妻である由美子夫人、全て彼の大学時代の知り合いでした。鬼貫はかつて恋した女・由美子夫人のため、殺人事件の不可解な点を解き明かしにかかります。その過程で姿を現すのが二つの「黒いトランク」。鬼貫はこの二つのトランクの動きを追いかけ、真犯人の持つ鉄壁のアリバイを崩すことになるのですが……。

読みながら感じたのは、クロフツの『樽』を連想させるアリバイ崩しの見事さよりも、鮎川哲也の描写の巧みさ。前回扱った『点と線』の松本清張の文章も際立って上手かったのですが、鮎川哲也も優れて知的で美しい文章を書くんですよ。最初の汐留駅の様子なんかは、

“ここで汐留駅について簡単に触れておこう。我々にとってなつかしい思い出の歌である鉄道唱歌に、”汽笛一声新橋を……”とうたわれている新橋駅が、じつは今の汐留駅なのである。旧新橋駅が開設されたのは明治五年十月、新橋・横浜間に鉄道が敷かれた時のことだから、わが国でもっとも古い駅の一つと言える。この駅の歴史を語ることは、同時に明治文化史の側面を語ることになるほどに、当時の文明の中心的存在であった。錦絵にもえがかれ、版画にもほられた。紅葉や蘆花たちの小説にもしばしば舞台となり、日清日露の戦役には、凱旋将軍がとくい気にひげをひねりながら意気揚々としてフォームに降り立った。”

……と、知識に寄った書きぶりかな、とは思うのですが、梅田刑事が白秋の生まれ故郷を訪れるシーンとか、対馬を訪れた鬼貫が「あの紅いのはなんですか」と尋ねて「寒椿です」と応じられる場面とか、事件から少し離れると途端に情緒が牙を剥く「情」の小説でもあるわけです。学生時代に恋した女のために完璧なアリバイを崩そうとする、この向き合い方もいいですよね。

とはいっても登場人物のネーミングで遊んでたり(馬場番太郎とか膳所善三とか!)、二つのトランクがすり替えられたタイミングについて捜査と思考を重ねていく過程の知恵熱が出るレベルの複雑さに突き当たると、やはり本格ミステリだよな、と読む前に抱いていたイメージと徐々に合致していきます。個人的にはトランクの謎については犯人から鬼貫への挑戦的な意味合いが強過ぎて、謎はスマートに解けるものの話としてはもやっとする印象を受けたので、真相を覚えている内に再読したいなと思った作品でした。