『只見線 敷設の歴史』一城楓汰/彩風社【鉄の本棚 22】その3

2019.05.26

1945年(昭和20年)8月16日〜1961年(昭和36年)
戦後復興と電源開発と只見線

戦後、1949年(昭和24年)「日本国有鉄道法」によって日本国有鉄道が誕生。国の直轄事業から公共企業体に換わりました。しかし実質的には100%政府が出資していて、国の重荷となった鉄道事業を肩代わりするという、後の分割民営化に繋がる脆弱な組織だったのです。

一方、戦後復興の中で電力が重要になります。戦後の電気事業再編で発足した電力会社では不可能な大規模電源開発を行う国の特殊法人電源開発株式会社が1952年(昭和27年)に設立され、只見川電源開発に乗り出します。

只見川には、源流側から奥只見ダム(電源開発)に始まって、大鳥ダム(電源開発)、田子倉ダム(電源開発)、只見ダム(電源開発)、滝ダム(電源開発)、本名ダム(東北電力)、上田ダム(東北電力)、宮下ダム(東北電力)、柳津ダム(東北電力)、片門ダム(東北電力)と多くのダムが並んでいます。

1953年(昭和28年)の「只見特定地域総合開発計画」によってこれらのダム群と会津線の延伸で会津川口〜只見間、只見線の延伸として大白川〜只見間の鉄道敷設が明記されました。

太平洋戦争によって中止されていた会津線会津宮下〜会津川口間の工事が1955年(昭和30年)、実に14年ぶりに再開されました。翌1956年(昭和31年)に工事は完了します。

※会津川口駅

一方、ダム工事では奥只見ダムの建設資材運搬は新潟の小出を基地として全長22kmにおよぶ新しい道路が作られました。ほとんどがトンネルという道路の建設に3年、ダムの完成に3年という年月が費やされたのです。このダム建設用道路は現在も「奥只見シルバーライン」という観光道路として使われています。

田子倉ダムは奥只見ダムの下流32kmで、ダムによって水没する集落などへの補償が大きな足かせになりました。ダム建設資材は専用鉄道が国鉄の施工で建設されることが決まり、ダム完成後専用鉄道は国鉄に編入となったのです。実はこの国鉄への編入を巡って曲折があるのですが煩雑になるので略します。

※入広瀬駅

1956年(昭和31年)着工の専用鉄道は突貫工事で1957年(昭和32年)8月に開通。田子倉ダムも1959年(昭和34年)に完成。専用鉄道はアッサリ国鉄に編入されるかと思いきや、住民の期待を裏切って編入が曲折します。住民が少ないエリアを結んでいたダム建設用専用線を国鉄は高く買い取るつもりが無かったのです。最終的に会津川口〜只見間27.7kmは1962年(昭和37年)に国鉄に引き渡されました。いよいよ只見線全通は只見〜大白川間を残すだけになったのです。

奇しくも、この国鉄に編入されたダム建設専用線会津川口〜只見間は、正しく2011年(平成23年)の豪雨で只見川に架かる橋梁が流失し不通になった区間なのです。

新潟側、只見線でも大白川までの開業から10周年を迎えた翌1953年(昭和28年)小出小学校で小出只見線全通期成同盟会結成大会が開かれました。

1956年(昭和31年)この小出只見線全通期成同盟会の会長についたのが後の総理大臣である衆議院議員田中角栄氏だったのです。

1959年(昭和34年)には、小出只見線全通期成同盟会を母体に新潟福島両県期成同盟会が結成され田中角栄氏が会長に就任したのです。

※只見駅

では最終章
1962年(昭和37年)〜1971年(昭和46年)
只見線全通
は次回に。

(写真・記事/住田至朗)


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